第八師団の老人:あるいは新撰組の夢
余談だが、この冬営中、師団長立見尚文中将が
「軍夫のなかに老人がいて、その男が新撰組の生き残りだといううわさがあるが、ほんとうか」
と、幕僚にきいたというが、うわさの実否はついにわからなかった。
(「坂の上の雲」第六巻より」
原稿中。色々じたばたしてます。R&Rの広告通りですから、もう大騒ぎですよ。
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そんな訳で、あまりまとまったことは書けませんが、生存報告代わりに周囲の出来事を。
●満州の新撰組
冒頭の文章は、日露戦争を描いた司馬遼太郎の「坂の上の雲」第六巻からの言葉である。
物語は、旅順陥落後、満州に下がったロシア軍本体もミシチェンコ騎兵軍団が、秋山好古率いる日本陸軍騎兵隊に襲い掛かるあたりである。秋山支隊の応援にまわされる第八師団のエピソードとしてわずかに触れられる。
この文章を読んだとき、私の脳裏をよぎったのは、明治22年から始まった、幕末史談の収集会「史談会」でのある記録である。参考→「新撰組証言録 ~ 『史談会速記録』が語る真実」。
大正12年、同会に参加した内藤素行氏の証言によれば、上野彰義隊に加わって死んだと言われていた原田佐之助が、実は生きていて満州の馬賊となっており、日清、日露の戦いに参加して、戦功を挙げたという。明治40年頃には一度、四国の故郷に帰国したと四国で報じられ、内藤素行は関係者に確認を取ったという。
実際のところ、最盛期の新撰組というのは200名を越える隊員がいたので、維新後、色々な場所に身を隠して生き残った。
斉藤一はその一角に過ぎない。
五稜郭まで行ったメンバーでも、土方の死後、島田魁らが弁天台場で降伏し、維新後に生き残っている。新撰組の隊士は若いものが多く、維新の時(明治元年=1868年)に20代というものがほとんどであったから、明治37年の日露戦争では60前後である。かなりの老齢ではあるが、戦場に立てない年ではない。
ましてやその武闘派、原田佐之助ならば、決して不可能ではない。
さきほどの話で、新撰組かと聞いた立見中将自身も維新の際は幕府側で桑名藩の洋式歩兵隊長を務め、北越戦争で、長岡藩と連合して、薩長軍と激戦を展開、一時、撃退することさえした人物だという。
維新後40年近く経って、維新の生き残りたちが満州の戦野に出会おうとしていたと思うと、それはなんという偶然であろうか?
●12世紀日本のバックギャモン
NHK「義経」で、木曽義仲の息子と源頼朝の娘が双六で遊んでいるところが1カット映った。双六と言っても、江戸以降の道中双六ではなく、いわゆるバックギャモンである。
2列の枠があり、この上を複数のコマを動かし、互いにゴールへ向かわせる。対戦者のコマの移動は逆方向であり、時には弾き、時には妨害していく。戦略的なゲームである。非常にエキサイティングなゲームで、ギャンブル性も高かった。
出自は中近東あたりではないかと思われる。日本にはかなり早い段階で大陸から伝わり、7世紀には大流行し、国が禁令を発したという記録がある。
持統三年(689年)十二月丙辰、禁断雙六。
「義経」のカットでは、漆塗りの小机の形をしていた。ダイスカップも漆塗りである。これらを使って、平安末期の幼き姫様がバックギャモンをされている図はまたひとつ趣き深いものであることよ。
バックギャモンについては、日本バックギャモン協会参照。
PS:6月上旬に行く大分のイベント主催者からお菓子が届く。おいしゅうございました。イベント後、鱧を食べましょうという夕食会を楽しみにしております。はい。
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