クトゥルフ戦国:信長時代の貨幣関係
「比叡山炎上」の件で、情報収集中。以下はとりあえずのメモ。
戦国期の貨幣単位がよく分からないので、確認のため、「戦国時代」&「貨幣制度」でネット検索してみると、とんでもないことが分かる。
●戦国時代は貨幣不足?
平安期に鋳造された皇朝十二銭以来、500年、日本で公式に鋳造された貨幣はなく、輸入した中国の銅銭を用いる他は、物々交換、もしくは、金銀を計量して貨幣に代用する。
平安以降、貨幣が公式に鋳造されなかった理由は二つ。
【1】幕府は日本の代表ではなく、公式には鋳造権を持たない。
【2】金を作っても、その貨幣に信頼性が得られるほど、権威が確立していなかった。
鎌倉幕府も、室町幕府も、金を作らず、中国経済圏の共通貨幣である中国銅銭に依存していた。それも十分な貨幣量に達しなかったので、中世日本では貨幣不足によるデフレ傾向にあった。
……足利義満が明貿易に精を出した理由もこのあたり。貨幣鋳造の代わりに、銅銭を輸入していたのである。その後、日本海側の戦国武将が海外貿易に取り付かれるのも銅銭ほしさである。
独自貨幣を持たぬまま、500年頑張ったものの、さすがに経済発展が遅れてくる。しかたないので私鋳という形で、銅銭の独自発行が行われるが、焼け石に水である。
●甲州金
戦国末期、武田信玄が、領国内だけで通じる金貨制度「甲州金」を運用する。(他にもいくつかの類似例があるが、なぜか戦国の革命児、織田信長は貨幣発行をしていないようだ)
甲州金のシステムは、1両=4分=16朱に始まる2進法形式で、これは武田の遺臣を引き取った徳川家康に採用され、江戸期の三貨幣併用制度の金貨・銀貨部門で使われる。
●江戸期の三貨幣併用制度
江戸期の貨幣は、甲州金のシステムを受け継いだ「金貨(両・分・朱)」(同価値の銀貨も併用)、重量制の「豆銀、丁銀」、中国銅銭と皇朝十二銭が入り混じる「銅銭」の三貨幣併用型で、金・銀・銅の関係はしばしば変動していたらしい。それは両替商が必要だ。このあたり、要調査。
●墨俣一夜城は三千貫
銅銭はいわゆる1文で、どうもこれは1文50円から100円の感覚であったようだ。時期により貨幣価値は変わるので、一概には言えないらしいが、『比叡山炎上』のあたりでは、1文80円、ないし、100円で換算すべきかな。
ちなみに、天正期(信長末期)だと、米3升が100文という。米が高い。
豊臣秀吉の出世物語の鍵となった墨俣一夜城は、その建設費用として、三千貫の銭をもらう。1貫は銭1000文を紐で通して、まとめたものであるから、三千貫は三百万文。1文=100円換算ならば、3億円である。
実際に城を建てたというよりも、上流から木材を運んで一気に「城壁」を建て、木製の砦をでっち上げたという代物のようだから、3億円というのはまあ、分かる値段か。建設要員は800名ほどだったようなので、人件費も何とか。
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