永遠の冬8:痛み
学び舎に窓は必要なのだろうか?
あれがなければ、誰も郷愁になど捕らわれはしない。
窓辺に差す光さえも、時として、心を射抜く。
10歳の秋。
峠を越えたウィリスは、砂の川原にある冬翼様の大社で修行を始めた。
「冬翼様の大社」
ゼルダ婆はそう言ったが、正しくは、プラージュの神殿である。狩りと漁労の神々であるプラージュの眷属を信仰する司祭たちの教団であるが、冬翼様はこの一角に祭られ、狩人の神ラージェレなどと並んでいる。
神殿の司祭長は穏やかな口調で、プラージュの信仰を語るが、ゼルダ婆は頑固だ。
「我ら、グリスン谷の守護神は冬翼様じゃ」
ゼルダ婆はそう言い切る。
婆とは長い付き合いらしい司祭長は呆れ顔で聞き流し、ウィリスに目を向ける。
「我らが神々は寛容である。グリスン谷のように、我らが神々のひとりだけを崇拝する村も多いし、村によっては神の解釈も違う。気づけば、ライエルの眷属神である豊饒の王さえも崇拝する。そのような混交さえも時には許さねばならぬ。
この神殿で学ぶ司祭候補生の多くは、あれを《冬の翼》と呼び、それほど重視はしない。しかし、冬翼様がグリスン谷の守護神であることには変わりはない。
ウィリスよ、ここで色々なものを見て、聞いて、己の村のために多くの智慧を持ち帰れ。
そうして、よりよきお迎え役となるのだ」
ウィリスの修行は、古い祝詞と祝い舞の習得である。
ゼルダ婆から学んだ冬翼様の七つの祝詞を、神殿の古文書から書き写し、その解釈と謡いを、司祭長に学ぶ。祝い舞は神殿の女性神官の下に通って舞い、また、弦や笛を学んだ。
「お前、冬の翼の司祭だって?」
祝い舞の修行に向かう途中、若者に呼び止められた。
装束から見て、司祭見習いらしい。
「冬翼様のお迎え役見習いです」
ウィリスは答えた。
ゼルダ婆は正しい肩書きにこだわる。
たとえ、世の人は冬翼様を、《冬の翼》と呼んでも、グリスン谷にとっては冬翼様なのだ。その正しき名前で呼ぶものにこそ、お答えくださる。
グリスン谷のお迎え役は、世間では司祭や神官に相当する役職であるが、あくまでも「お迎え役」なのである。胸を張って、その名前を口に出来ないものにお迎え役の力は備わらない。
「お迎え役? 田舎村らしいな」
相手は蔑むように言い捨てた。
「お前の神さんなど弱くて、本殿の端っこにしか見えないぜ。
どうせなら、ザラシュ様を拝みなよ」
プラージュの太陽神だ。およそこの神殿でも上位に位置する強き神だ。この若者は、ザラシュの力を己のものかのように胸を張った。
「ザラシュ様にもお祈りをしております」
ウィリスは答えた。
嘘ではない。
司祭長は、ウィリスの修行を引き受ける代わりに、神殿の掃除と、毎日、諸神を礼拝することを命じた。盟友たる神々を礼拝し、多少の労働をすることに、ゼルダ婆も反対はしなかった。おかげで毎朝夜明け前に、ウィリスは神殿を掃除し、諸神の像の前でお祈りを捧げていた。
しかし、ウィリスの言葉は若者を激怒させた。
意味の分からない唸りとともに、拳がウィリスの顔を襲った。
突然、突き飛ばされ、そのまま、激しく蹴られた。
「この、この、お前、この」
若者の叫びは意味が分からない。
ただ、ウィリスは痛みに呆然とし、状況が理解できなかった。
痛い、痛い。
でも、どうして?
ウィリスはかっとした。
転がって、逃げ出すと、拳を握って立ち上がった。
「えええ、やるか?」
若者は拳を握って飛び込んでくる。
ずいぶん体が大きい。
ウィリスは横に飛びのいた。
そのまま、横から殴るが、相手の肩に当たって弾かれた。
プラージュの神殿は勇猛な狩猟の神々を崇拝する。司祭は祈りと同時に、戦の技も学ぶ。正司祭になることは神殿騎士として十分な武芸を体得したということにもなる。この若者も、庭で武芸を学んでいたのだろう。
「でかい奴と喧嘩する時には、股を蹴ればいい」
昔、ガースが言っていたのが、ウィリスの頭をよぎった。でも、そんな作戦さえうまく出来そうにはない。
若者の膝がウィリスの腹に入った。
息が詰まった。
動きが止まり、そのまま、床に転がった。
「ガキが! 生意気なんだよ」
若者はわめき声を上げながら、ウィリスを蹴った。
腹を、顔を、背を、足を、腕を。
痛みは止まらない。
(なぜ?)
痛みの中で、ウィリスは思った。
(弱いからだ)
誰かが答えた。
(弱い匂いがする)
獣の息が近づいてくる。
(弱いものは餌に過ぎぬ)
ああ、とウィリスは知った。雪狼は弱いものの魂を喰らう。死すべき者に冷たい吐息を吐きかける。
(弱いものを狩り、弱いものを喰らう。それがプラージュの本質だ)
雪狼の声はもう耳元に迫っている。
(お迎え役は弱いものであってはならない)
同時に、冷たい腕がウィリスを抱きしめた。
痛みが消え、力が湧いてきた。
急に目の前が明るくなった。
すっと後方に飛びのいて、周囲を見る。
全部、見えた。
怒り狂った若者。顔を真赤にし、目を血走らせ、半開きの口から涎が一筋こぼれている。
次はそのまま飛び掛って、ウィリスを床に押し付け、顔を殴る気だ。
その後ろ、廊下の隅に見ている若者の仲間が三人。あざ笑うような顔は下品に歪む。そのうち、ひとりはやや仲間の暴走に気づいているが、床に垂れた血に興奮している。
血?
いつの間にか、ウィリスの口が切れ、神殿の床に血が飛び散っていたのだ。
見れば、襲ってきた若者の拳に血がついている。
一瞬で、そこまで見えた。
(お前の目はいい)
父が言っていた。4年間続けて、村で最初に冬翼様を見つけた。
少年は、若者の拳をさらに避け、そのまま後退して、若者をにらみつけた。
(殺すか?)
雪狼の声がウィリスの中で響いた。
周囲に冷たい氷のような風が巻いた。
若者は、突然、顔に叩きつけられた氷雪にびくっとした。
「な、ななな」
若者はそこで立ち尽くした。
(殺すか?)
もう一度、雪狼の声がウィリスの中で響いた。
ウィリスの腕に先ほど蹴られた痛みが戻ってきた。怒りが腹の底からわきあがってくる。若者の暴力がやっと理解できた。ウィリスは意味不明の暴力で蹴り殺されようとしていたのだ。
殺す、と答えそうになった瞬間に、何かが引っかかった。
ゼルダ婆の顔が浮かんだ。メイアの顔が浮かんだ。
ここで訳のわからぬまま若者を殺してよいのか?
ウィリスはためらった。
人を殺す?
「何をしている!」
ウィリスの考えを断ち切ったのは、司祭長の怒号だった。
廊下の向こうから司祭長が走ってくる。
司祭長の声に我に返った若者は悲鳴を上げて逃げ出した。
ウィリスもまた、気を失った。
若い司祭候補生同士の喧嘩、ということで事件は終わった。
若者は司祭の修行に行き詰まっていた。武芸は出来ても祈りの暮らしに我慢がならない。そんなとき、山奥から出てきた少年に、司祭長自ら手ほどきをしているのを知り、これを少し小突いて、憂さを晴らそうとした。だが、どこかで止まらなくなり、血が流れるほどに殴り、蹴った。司祭長が止めに入らねば、少年は蹴り殺されていたか、すくなくともどこかの骨を痛めていたに違いない。
結局、少年は三日寝込み、若者は罰を受けて、神殿を追われた。
結局、雪狼の声のことは、ゼルダ婆にしか話さなかった。
ゼルダ婆は、ため息をついた。
「このような場所は、お前には似合わぬか?
まあ、よい、お前には冬翼様がついておる」
ウィリスの最初の修行はこうして終わりを告げた。
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神殿修行編終わり。
もっと長くしようかと思ったが、雪狼が暴れすぎ。
ウィリスの最初の旅はこれで終わる。
明日は朝から学校なので、書けないと思う。
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