波切り不動、飯高壇林
日曜日から一泊二日で里帰り。
千葉の九十九里海岸沿いの匝嵯(そうさ)市(旧名・八日市場市)というところです。海上(うなかみ)の下に当たるので、クトゥルフ神話的に言えば、海底(うなそこ)郡のどこかです。
帰省のついでに、自分の原点を確認すべく、故郷の史跡をいくつか回ってきました。
●波切り不動
匝嵯市は、江戸時代に「椿の海」という湖を干拓した干潟八万石の田園地帯が有名で、農業地帯としての色が濃いのですが、九十九里海岸の中間より少し北側にあり、アカウミガメの産卵地であったり、コアジサシの繁殖地であったりします。
『クトゥルフ神話ガイドブック』でも書きましたが、成田不動尊が上陸したのも、匝嵯市に近い横芝光町の尾垂浜で、今、ここは史跡となり、波切り不動と呼ばれるお不動様が飾られています。成田の本尊、不動明王は平将門鎮圧のため、弘法大師が開眼したという、呪的戦略兵器でして、関東の制圧に功績があったとされます。
その上陸地点という訳ですから、対将門戦におけるノルマンディー……いや、ちょっと違うか。
浜辺が近いので、コアジサシが波打ち際をちょこちょこ走り回って、採餌するのを観察したり、海の息吹を感じたり。太平洋の波が直接打ち寄せる荒波の響きを文字通り、感じてきました。
●星神社
干潟八万石を見下ろす下総台地の突き出した舌状部分の傍らに、星神社という無人の社があります。妙に原生林と温帯雨林の入り混じった里山の奥、三つの石段を合計80ばかり上がったところにあります。集落の氏神社ではありますので、それなりの世話はされておりますが、全く無人で、人気はありません。
おそらく、千葉氏など関東八平氏の守護神が妙見菩薩(星の神)なので、これに通じる信仰であろうかと。要調査。
●飯高壇林
匝嵯市の北側、飯高(いいだか)というあたりに、かつて、日蓮宗の学問所である壇林がありました。天正8年(1580年)の開設と言いますので、織田信長の末期です。もとは地元の豪族の砦だったので、丘の上にあり、空堀、総門など防御のための城構えもあります。当時は目の前には、椿の海という大きな湖がありました。
これを日蓮宗がもらいうけ、壇林とし、後に徳川家康の側室、お万の方の帰依を受けて、関東有数の学問所として発展しましたが、明治初期の壇林廃止例で解散、ここにいた僧侶たちが東京に出て作ったのが、後の立正大学となります。そういう歴史がありますので、地元では「日本最古の大学」と称しております。
重文に指定された大講堂はなかなか大きいもので、江戸期の飯高が、実は壇林の門前町として発展していたというのもよく分かります。周囲に三つの谷が設定され、そこに二十ほどの庵が散在し、壇林で学ぶ学僧の住居や学びやとなっていました。
壇林は解散しましたが、その代わり、飯高寺というお寺が残っています。これがまた、妙見山妙福寺と言います。妙見様です。おそらく、ここにも、星の神がいます。
いやいや、伝奇小説を地で行きますな。
いずれ、これを小説に書きたいと思っております。
●郊外型ショッピングセンター
地元に、巨大な郊外型ショッピング・センターが出来ており、そこで夕食の買い物をしたのですが、土地の安いぶん、とにかく大きくてびっくりします。ホームセンターと一緒の上、都市部なら3階建てにするところをそのまま横に伸ばして、天井の高さは2倍のままです。えーっと端が見えませんが、リングワールドみたいな気分です。
●眠りの扉
今回は行き帰りとも、房総特急「しおさい」を使いましたが、おそらくナリタ・エクスプレスと同系の新型車両になっていて、椅子のリクライニングが向上しておりました。おかげで、行きも帰りも原稿チェックをしながら、うつらうつらとなり、そのまま眠りこけてしまいました。行きなど錦糸町と松尾の間、熟睡していたようで、風景の違いにやや驚きました。ああ、こういうのが眠りの扉を通りすぎた感覚なのかもしれないと思いつつも。
今日から仕事に復帰、リプレイなど書いたり、JGCの準備をしたり。