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2006年9月10日 (日)

永遠の冬 第11話~20話

11】狼煙

 
 人の弱さとは救いである。
 それは物事を解決しないという破滅への道を示すから。
 弱きものを喰らうことにためらいを示す限り、まだ人は人に戻れる。

 

 ウィリス11歳の春。

 冬送りの祝詞巡りが行われても、ウィリスの心は晴れなかった。

 雪狼の姫ネージャから「獣の王になる」と言われたこと自体は、ウィリスの生活を変えはしなかった。冬の間、ゼルダ婆はウィリスに「お迎え役」の修行を続けさせた。いずれ、冬翼様をお迎えすることに変わりはないのだそうだ。ただ、ウィリスはいずれお迎え役の上のお役目である「獣の王」の地位につき、冬翼様のために重要な働きを成すのだという。それがどのような働きなのかはまだ語られなかった。
「次の夏、お前はグレイドルに行き、すべてを学ぶこととなろう」
 ゼルダ婆はただ一言、そう言った。
 グレイドルはバッスル侯爵領の都である。この地には、冬翼様に近しい神、《冬の統領ル・ウール》様の大社がある。《冬の祠》というそうだ。

 
 結局、冬の間、ウィリスがネージャ様と再び出会うことはなかった。

 あれ以来、ウィリスはより深く、雪狼たちを感じるようになったが、それゆえにか、雪狼たちはこの冬の間、一度も村には入ってこなかった。
 ただ遠くから、雪狼たちが何かを狩りだす雄叫びが何度か聞こえただけだった。

 
「ゼルダ婆、少しばかりいいか?」
 冬送りが終わってしばらくして、村長と村の男衆数名がゼルダ婆を訪ねてきた。その中にはウィリスやメイアの父の姿もあった。村長が年始の挨拶で、領主のミネアスを砂の川原に訪ねた際、村にも関わる命令を下されたという。
「お前もそこにいなさい」
 婆は席を外そうとするウィリスに、声をかけた。
「これから、我らは辛い話をする。しかし、お前は次なるお迎え役として、これを聞かねばならぬ。そして、胸の内に秘めておかねばならない」
 婆が、ウィリスの父に眼を向けると、父はゆっくりとうなずいた。
 やがて、村長が言った。
「バッスルでまた戦があった」
「毎年のことではないか?」
と、婆が答える。
 北原の雄バッスルは、隣接するラルハース侯爵領と毎年のように戦争を繰り返している。両国の間にあるレキシア湖を巡って戦いが絶えない。ラルハースは水魔を信仰する国だから、夏は強いが、冬になり、湖が凍ると水魔は動けなくなる。そこで、冬の神を信仰するバッスルが攻め入り、水魔の巣を焼き払う。これに対応して、ラルハース騎士団が出兵する。
「いや、今年は跡目争いが絡んで、大きな戦になった。甥っ子のジェイガンがバッスルの手を借りて、ラルハースの都ペリエールに攻め込んだ。南のダリンゴース、北のユラスまで加わって、ジェイガンが勝った」
「ユラスまで」
 ゼルダ婆が眼を向いた。
 ラルハースの北、残虐なる黒男爵の支配するユラスは、闇の国と恐れられる国だ。このロクド山中でも、ユラスの黒男爵の恐ろしい所業は伝わっている。もともとの主を裏切り、一族全てを串刺しにしたという。その配下の黒騎士たちは人というより、闇の魔性に近いおぞましい生き物であるという。
 南のダリンゴースは利に聡い商売上手な国なので、利を見て戦に乗ったのが分かるが、闇の国ユラスまでも引き込んだというのは大事である。
「それだけではない」
と、村長は声を潜めた。まるで誰か、いや、黒男爵の手先に聞こえないようにするかのように。
「ダリンゴースは、獅子の戦鬼(いくさおに)を送り込んだそうな」
「獅子王教団! ジェイガンはラルハースを焼け野原にするつもりか!」
 ロクド山の山奥でも、獅子王教団の恐ろしさは伝わっている。後退という言葉を知らぬ獅子王教団の狂戦士たちは、このあたりでは、戦鬼と評されている。
「あんなものを送り込んだら、戦いが止まぬではないか?」
 初めて、ウィリスの父が口を開いた。
「見たことがあるのか、ジード」と、メイアの父が問いかける。
「昔、一度だけ」
 答える父の顔はウィリスの知らない苦渋に満ちたものだった。
「奴らは傭兵だ。誰かが雇えば、どこの戦場にでも現れる。
 そして、死ぬまで戦う。戦場の誰もが死ぬまで。
 俺たちの部隊はあれのおかげで、半分が死んだ」
 ウィリスは父が戦場にいたことを知らなかった。流れ者であるとは聞いていたが、開拓村であるグリスン谷では2、3代前に入植した者も多い。中には、それまで砂の川原で流刑の身にあった者もいるので、谷に来るまで、何をしていたかは互いに詮索しない。おそらく、村長とゼルダ婆、村の男衆の一部だけがそれを知っている。
「ひどい戦場だった。
 人も馬も引き裂かれ、血の川が流れた」
「同じ話を、ミネアス様から聞いた」と村長が言った。
「バッスルの軍勢に加えて、ユラスの黒騎士、獅子どもだ。
 ラルハース側は全力で水魔どもを叩き起こし、怪物たちが戦場に現れた。
 ひどい戦場だったそうだ。
 最後は、黒い龍まで飛んできて、都を焼き払ったそうな」
「龍だって?」
 思わず、ウィリスまで声を出した。
 南方ファオンの野には巨大な龍という怪物が封じられているという。それは城の塔よりも大きな空飛ぶ怪物で、トカゲのような鱗に覆われた体と、コウモリのような翼を持ち、口から火を吐く。あまりに恐ろしい怪物であるため、見ただけで気が狂うともいう。

 
「龍か、なるほど、冬中、山の雪狼どもが東へ向かって遠吠えする訳だ」
 ゼルダ婆は極めて落ち着いた声で応じた。
「それだけの戦の気配が北原に満ちれば、その余波もこよう。
 して、ガイウス殿は討たれたのかな?
 いや、それならば、ミネアス様は気にすまい」
「婆はようお分かりだな」と村長。「ガイウスは傷を負われたが、魔法の力を借りて落ち延びたらしい。ジェイガン殿も、バッスル侯爵殿も、ガイウスの行方を探っておる。大方の者はさらに東、ワールの黒き森と見ておるが、ロクド山という噂もある」
 ワールの黒き森は魔族の住処と言われる恐ろしい場所だ。そこに逃れるくらいならば、この深いロクドの山々のほうがずいぶんましだと言えよう。
「おかげで、街道沿いの飛び地全てにガイウス探索の命が下された。
 ミネアス様は、古き盟約に従い、村にも出仕の命を下された。
 兵士5名を探索隊に出すとともに、峰の狼煙台を整備し、これの番役を出せと」
「ミネアス様はお優しいのお、それで済ませてくれるとは」
 婆は言った。
 北原の諸国の軍務はもっと厳しい。冬ともなれば、村の男衆の半分が戦場に出ることもあるという。百人ほどのグリスン谷に兵5名だけならば、農作業も何とかなる。狼煙台の番役は老人や女子供でもよい。
「それ以上では畑の世話も滞る。ミネアス様はそっちのほうが困るそうな」
 村長はそう言って、村の男衆を振り返る。
「ジード、行ってくれるか?」
 ウィリスの父はうなずいた。
「いつものように、井戸端のヨト、牧場のキャズ、老ジャスパーを連れていく」
 それは村の自警団の仲間だ。ヨトは剣が使える。キャズは若いが、一度騎兵に取られ、馬上で槍を使える。老ジャスパーは弓の上手である。
「あとは……ガースか?」
 ウィリスは幼なじみの名前が上がったのに驚いた。確かに、最近、ジャスパーの元で弓を習い、狩人になる修行をしている。
「ウィリスと同い年か、まだ少々若いが、筋はいい」と村長がいう。「狼煙台は、持ち回りで番役をこなすが、村の衆はしばらく春の種まきで忙しい。ウィリスを借りたい。眼がよいからな」

 

 グリスン谷にも、北原の戦乱がゆっくりと忍び寄ってきた。
 こうして、ウィリスは遠い狼煙を見ることになる。

 

12】烽火

 
 それは緩やかに近づき、素早く奪っていく。
 もっとも大事なものを。
 

 ウィリス11歳の春は続く。
 父のジードは、ガイウス探索部隊に加わるため、ガースらを連れて砂の川原に向かった。
 その朝、ウィリスは初めて、父の鎧姿を見た。
 前の開いた丸兜、胸当て、鎖帷子、鉄のすねあて、そして、腰から下げた長剣、背中に背負った円形の盾。そこここに鋼鉄の鋲が打たれ、歩くだけでがちゃがちゃと言う。ずいぶん重そうなそれらを父は軽々と持ち上げた。
 見送りの村人に答えて、軽く剣を抜き、振るって見せた。
 鈍い輝きを放つ剣がぶんと空を切る。
 重い鎧をまとっているとは思えない。
 戦士としての父は全くの別人だった。
 それは誇らしいとともに恐ろしいものでもあった。

 
 父は戦うのだ。

 
 最後に、父はウィリスと母を抱きしめて言った。
「ウィリス、お前はお前の役目を果たせ」

 
 父たちが村を出て行くと、ウィリスも荷物を背負って狼煙台に上がった。番役は持ちまわりになるが、春の種まきが終わるまで、村は忙しいので、もっぱらウィリスの仕事になる。
 狼煙台の役目は、東のバッスル侯爵から発せられる緊急招集を西へ伝えることである。はるか東の狼煙台に上がる狼煙を見つけたら、狼煙台に火をつけ、この日を三日三晩、燃やし続ける。この狼煙が発せられたら、さらなる戦の始まりだ。今度はグリスン谷のような小さな開拓村にも兵士が求められる。次なる出仕の割り当ては兵10名、馬2頭。若者のほとんどが戦に取られることになる。
 ウィリスはその日が来るのが恐ろしかった。
 東の狼煙台はミネアス様の領地の東の端にある。西の狼煙台ははるか西方、風見山だ。確かあのあたりには銀鉱山があって、多くの流刑者が山を掘っているという。

 
 狼煙台に上がって数日は、狼煙台の整備と薪の供給のため、多くの村人が出入りしていたが、それが過ぎると、番小屋はウィリスだけになった。
 食べ物を届けに、毎日、メイアが峰まで上がってきたが、夕方には村に下りていく。

 
 夜はひとりだった。
 いや、正確には違う。
 ウィリスには雪狼がいた。
 冷たい峰の空気の中に、雪狼たちの魂が隠れていた。
 だから、ウィリスは寂しくはなかった。

 
 何事もないまま、10日が過ぎた。

 
 ある日、メイアが上がってきたので、番小屋の前に座り、二人で食事をしていると、誰かに呼ばれたような気がした。見れば、西の風見山の狼煙台に白い煙が立ち昇っている。
 西?
 慌てて、東の狼煙台を見るが、煙は上がっていない。
 なぜ、西?
 ウィリスは西からの狼煙に関する命令は受けていなかった。
 しかし、これは狼煙だ。戦の印だ。
 ウィリスは立ち上がり、狼煙台に火を放つと、メイアに叫んだ。
「村へ知らせを」
 少女が慌てて、山を下っていく姿を見送るウィリスの耳に雪狼の遠吠えが聞こえたような気がした。

 
 戦いが始まる。
 東ではなく、西から。

 

13】反乱

 
 奪われないために戦わなければならない。
 剣を取り、牙を磨く。
 それでも、生きていかねばならないから。

 
 ウィリス11歳の春は波乱に満ちたものとなった。
 西方風見山の狼煙が上がり、狼煙台のウィリスはさらに狼煙を上げた。東方、砂の川原の狼煙台が赤い煙を上げた。それは予想外の警戒を示す煙だ。

 
「風見山の銀山で何ぞあったのじゃな」
 村からの知らせで狼煙台から降りてきたウィリスに向かって、婆はそう言った。
 西方の風見山には古い銀鉱山がある。以前はずいぶん栄えていたというが、今や細々と流刑者が銀を掘るばかりだ。銀の質も落ちているらしい。今はミネアス様が治める砂の川原のほうが栄えているという。
「いずれにせよ、村は備えねばならぬ。
 戦となれば、兵10名、馬2頭を揃え、村にも守りが必要だ」
 そう言って村長がウィリスを振り返る。
「お迎え役を村から出仕させるのは心外だが……。
 人手が足りぬ。婆もお前に行けと」
「お前には雪狼様のご加護がある。
 時には、お前にしか見えぬものがあるかもしれぬ」
と、婆はうなづいた。
 そうして婆が虚空を見上げた。
「風が荒れておる。西から東、東から西。いずれも吠えておる」
 ウィリスの耳に、雪狼の遠吠えが聞こえたような気がした。

 
 狼煙の2日後、街道を見張っていた村人が慌てて、九十九折れを降りてきた。
「峠から、赤揃えの騎士が!」
 村長に率いられ、ウィリスら出仕の兵10名が馬2頭を連れて、坂を上った。
 峠から下ってきた騎士は、きらびやかな姿であった。全身を真紅の鎧で包んでいるだけでなく、磨き上げられた兜の額には水晶がはめ込まれ、鮮やかな紅白の羽とともに、この世ならぬ艶やかさを放っていた。大柄な軍馬さえも銀の馬鎧に包まれ、ただならぬ雰囲気を放っている。
 その傍らには同じく赤揃えのお仕着せをまとった歩兵4名が付き添っている。いずれも、分厚い鎖帷子の上から戦胸甲をつけ、まがまがしい輝きを宿す斧槍をかついでいる。
「これが噂に聞くマリュアッドの騎士か!」
 村長が恐れ入るように漏らした。
 マリュアッドの騎士はバッスル軍でも精鋭と名高い一族だ。砂の川原のような砂鉄の産地を支配し、バッスル侯爵に仕える一族の中でももっとも豊かで、もっとも誇り高い。その証がこの赤揃え、真紅の鎧だ。砂の川原を支配するミネアスは、この赤き一族の傍系に当たるという。
 対するグリスン谷のものたちは、鉄の額当てをつけただけの毛皮帽子を被り、厚手の毛皮を背負いばかりでほとんど鎧と言えるものは着ていない。武器も、古びた剣や槍ばかりである。ウィリスも、村長から借りた小振りの剣と数本の短剣を装備しているばかりだ。
「グリスン谷のものか?」
 騎士は面頬を上げた。
 そこにはミネアス様に似た若い顔が見えた。
「我はミネアスが一子、カルシアスなり。
 これより、西方風見山へ向かう。汝らは我に従え!」

 
 カルシアスは、徒歩の兵を引き連れ、西へと進んだ。
 途中、グリスン谷のような開拓村からの出仕兵を加え、その兵員は50近くに膨れ上がった。出仕兵たちは村ごとに1隊にまとめられた。グリスン谷の長は、水車小屋のヤンがついた。
「戦になったら、ウィリスは、ダーシュの横についていろ」
 ヤンはそう言った。

 
 グリスン谷から三日進んだあたりで、風見山から逃げてきた兵と出会った。
「反乱です。流刑衆が何者かに解放され、監視の兵を襲いました」
 脱出の際、矢を受けたままの兵士は苦しげに報告する。
「水魔が現れました。おそらくはラルハースの残党かと」
 カルシアスの顔が歪んだ。
 バッスルにとって、不倶戴天の敵ラルハースは水魔の国だ。ラルハースの主力である泉水騎士団は、その名の通り、泉の女神を信仰し、おぞましい水魔を使う。
 先日の内戦の結果、バッスルに友好的な甥ジェイガンが爵位についたが、逃げ出したガイウスやその配下である泉水騎士団の残党が、ロクド山に逃れたという噂もある。
「やっかいな戦になるぞ」

 
 かくして、少年はいやおうなく戦いに巻き込まれていく。

 

14】夜襲

 矢羽の音、悲鳴、馬のいななき、そして、血潮の匂い。
 忘れたくても忘れられない。

 
 戦いの始まりは、夜の闇の中であった。

 
 ウィリスは雪狼の声で目覚めた。
 風見山へ踏み込む前夜、真夜中を過ぎた頃。部隊は街道を離れ、林の中で休息を取っていた。
 目覚めると深い霧が漂っている。このあたりでは珍しい、深くじっとりした霧だ。

 

(餌になるぞ)

 
 雪狼の声がウィリスにささやいた。
 首筋がちりちりする。
 ウィリスは隣で眠っていたダーシュをこづいた。
「ダーシュ、よくない霧だ」
 ダーシュは寝ぼけた顔でいたが、やがて、うなずき、水車小屋のヤンを呼んだ。
 ヤンはグリスン谷の全員を起こす。
「ああ、この霧はよくない」
 ヤンは、剣を取ると、ウィリスに一緒に来るようにいった。

 
「この霧はよくないな」
 カルシアスはうなずいた。彼と赤揃えの兵士たちはすでに目覚めていた。焚き火が高く燃え上がり、カルシアスはすでに赤い鎧を身につけ始めていた。
「まだ、川面からずいぶん上だと思っていたが、ここまで霧が上がってくるとなれば、奴ら、近いぞ。ゾークス、全軍を起こせ」
 鎧を付け終わったカルシアスは、ひらりと馬に飛び乗った。磨き上げられた真紅の鎧が馬上に輝くと、兵士たちはおおと声を上げた。華麗の一言で知られるマリュアッドの騎士である。同じく真紅の馬上槍と騎士盾を構えると、戦の神のようにも見えた。

 
 次の瞬間、霧の向こうで、叫びが上がった。
 数本の矢が霧を貫いて、飛来する。首に矢を受けた不幸な兵士がひゅーひゅーと悲鳴を上げて倒れる。
「来るぞ!」
 カルシアスの叫びに答えるように、霧の中から不気味な怪物が飛び出してくる。怪物は青白いぬらぬらした人型の生き物である。顔には人のような目鼻はないが、ウィリスは蛙のような雰囲気を覚えた。
「この水魔め!」
 カルシアスは、前進して、馬上槍を怪物に向かって突き出す。濡れたような皮膚にすべって、槍が流れた隙に、怪物がカルシアスに飛び掛るが、赤揃えのゾークが横から斧槍を突き出し、怪物を叩き落とす。そこへ赤揃えの兵士たちが群がり、剣を突き下ろす。

 
 後は乱戦であった。

 
 水魔は最初の一体だけではなく、次々に霧の中から現れ、カルシアスに向かってくる。
 赤揃えの5人の兵士が、一斉に斧槍を振り下ろし、水魔たちに傷を負わせる。ヤンはカルシアスの近くにグリスン谷の兵士を集め、水魔たちの横あいから襲いかかった。ウィリスはダーシュとともに、水魔に向かって剣を突き出した。水魔の体はぬらぬらして、剣はなかなか通らなかったが、何度もつくうちに、青みがかった血が噴出した。
 突然、ウィリスの体が弾き飛ばされた。
 何が起こったか分からなかった。
 見上げると、傷ついた水魔がウィリスを睨むように振り返っていた。戦場の中央で燃え上がる焚き火の炎を背に、水魔は暗く不気味な青い影に見えた。

 
「うらああああ」
 叫びとともに、ウィリスの倒れたすぐ横を蹄が通り過ぎていった。

 
 青白い。
 風というよりも、谷川の水のような透明な青。

 
 それは一瞬の隙をついて、戦場を突破した。
 青き騎士は、グリスン谷の兵士たちを踏み越え、霧の巻いた林の中を走り抜ける。
 赤揃えの兵士たちが振り上げようとする斧槍が林立する前に、それを踏み越える。
 構えた青い馬上槍が電光のように、カルシアスの赤い鎧に向かって突き出される。
 どん!
 カルシアスは、構えた盾ごと吹き飛んだ。

 
 ウィリスはその光景を始めてみた。
 鎧を着た真紅の人影が、馬上から弾き飛ばされ、宙を飛ぶ。
 そのまま、木の幹にたたきつけられ、複雑な金属音を立てる。
 まるで、濡れ雑巾のように、赤い血の跡を引いて、そのまま崩れ落ちる。

 
「カルシアスさま!」
 赤揃えのゾークが叫ぶ。助けに向かおうとする前に、青白い騎士が立つ。先ほどの突撃で折れた馬上槍はすでに捨て、片手半剣を構えている。
「ガレンナ砦の敵は取らせてもらった!」
 青白い騎士が叫ぶ。
 同時に、奇怪な青い軍馬が霧を吐く。周囲にじっとりとした嫌な空気が流れる。
「水の騎士め!」
 赤揃えのゾークが斧槍を突き出すが、盾に弾かれ、そのまま、切り下ろされる。騎士の剣はゾークの赤い兜を断ち割り、ゾークは脳漿と血を噴出したまま、崩れ落ちた。
「殺せ!」
 騎士の命令に水魔たちが飢えた叫びで答えた。
 殺戮が始まった。

 

 

15】殺戮

 我が声に答えよ。
 我が絶望に答えよ。

 
 カルシアスの敗北、ゾークの死とともに、兵たちは崩壊した。
 生き残っていた赤揃えの兵が斧槍を振り回したが、水魔たちが群がり、赤揃えの鎧はもはや見えなくなった。

 
「逃げるぞ!」
 青白い騎士が走り抜けた時から倒れたままのウィリスだったが、ダーシュに腕を引かれ、慌てて立ち上がる。息を荒くしながら、青白い騎士に背を向け、ダーシュとウィリスは街道とおぼしき方角へ向かって走り出した。
 水魔の吐いた霧がねっとりと足に絡む。
 林の木々の根っこがまるで生きているかのように、ウィリスのつま先に当たり、たびたび、体勢を崩させる。ひっくり返ったら、終わりだ。ウィリスは必死にダーシュの背中を追った。いつの間にか、剣は投げ捨てていた。空になった腰の鞘さえ邪魔だ。

 
 背後から蹄の音とともに、じっとりした湿気が押し寄せてきた。

「ダーシュ!」
 ウィリスは叫んだ途端、木の根につまづいてひっくり返った。

(右)

 雪狼の声に反応して、横に転がると、今、倒れた木の根を青白い蹄が踏み破って、通過していく。一緒に振られた剣の刃がウィリスの顔の上を抜け、そのまま走るダーシュの首へと叩き込まれる。
 丸い物が飛び、ずいぶん背の小さくなったダーシュは数歩走って林の木にぶつかり、倒れた。

「ダーシュ、ダーシュ、ダーシュ」

 ウィリスは呟きながら、立ち上がる。
 青白い騎士は、怪物のような青い軍馬の馬首をめぐらせる。
 ただ、無言で剣を持ち上げると、ぱんっと手綱を入れた。
 青い軍馬が、谷川の流れのような青い風となってウィリスに迫る。

 死ぬ?
 あの剣が僕を殺す?

  不思議と実感は湧かなかった。ダーシュの首が飛ばされた瞬間に、ウィリスの頭はよく動かなかった。

 「うらああああ」
 水の騎士の剣が振り下ろされる直前、ウィリスの前に、大柄な姿が飛び出した。赤い斧槍が突き出され、騎士の剣を受け流す。
「馬鹿、ウィリス、逃げろ」
 水車小屋のヤンだ。
 その姿はすでに赤と青の血にまみれていた。水魔の血とおそらくヤン自身の血だ。
 ヤンは片手でウィリスを押しやる。
「みんな、やられた。お前は逃げろ」
 言われて、林の中に逃げ込む。
 慌てて、走り出し、「ヤンも……」と呟き、振り返った途端、ヤンが騎士の剣に刺しぬかれるのが見えた。
 悲鳴を上げながら、走り出す。
 もう必死だった。
 藪を突きぬけ、石を飛び越え、ただ走った。

 
 やがて、柔らかな何かに足を取られて地面に倒れた。

 
 鼻腔を、濃密な血の匂いが襲う。
 はっと顔を起こし、見回すと、周辺は死体だらけだ。見れば、ばらばらに引き裂かれた真紅の鎧が転がっている。踏み荒らされた薪の跡。
 そう、ここは最初に襲われた場所だ。
 足を取られたのは、誰かの死体だ。もう誰かは分からないが、あの御貸し武具はグリスン谷にあったミネアス様のもの。谷の仲間だ。
 立ち上がり、顔を見ようとしてためらう。

 
(弱い者、弱い者)

 
 雪狼の声が響いた。

 
(汝は獣の王。ここで死せば、谷は滅びよう)

 
 周囲にはまだ濃密な霧が漂っている。水魔の気配はないが、いずれ戻ってきてもおかしくはない。
 逃げなければ。
 しかし、ウィリスの足はもう震えて動かない。
 いや、どこへ行けばいいのかも分からない。

 
(我らの名を呼べ。我が姫君の名を呼べ)

 
 雪狼がささやく。

 
(されば、この地は我らが領土となろう)

 言葉の意味は分からなかった。
 ただ、生きたかった。
 ダーシュの仇とか、ヤンの復讐とか、そんな思いさえなかった。
 ただ、殺されるのが怖かった。
 ウィリスは祈った。雪狼へ祈り、雪狼の姫ネージャの名前を呼んだ。

 
 やがて、雪が舞い、ウィリスは雪狼の遠吠えを聞いた。

 

 

16】顕現

 
 それは始まり。
 それは終わり。
 それは……

 
 雪が舞っていた。

 
 ふわり。遠吠えの声とともに、雪狼たちが虚空から現れた。

 
(さあ、祈り、求めよ。我らが姫の顕現を)

 
 雪狼たちが空に向かって遠吠えする。
 ウィリスは立ち上がり、眼を閉じたまま、お迎えの祝詞を唱える。
 血まみれの大地を踏みしめ、舞の仕草を始める。両手を差し伸べ、ゆらゆらと複雑な弧を描く。
 ウィリスの祝詞に合わせて、雪狼が吠える声を上げる。
 雪狼の吠えるたびに、冷気が吹き荒れ、白い雪が舞い飛ぶ。

 
(この地を姫君に捧げん)
 

 それは約定の言葉。
 それは契約の言葉。
 それは開門の言葉。

 
(御顕現あれ!)
 

 ふわり。
 毛皮の帽子と白い鎧装束をまとったネージャが虚空から表れた。
 その手には青き氷の大槍。

 
「ウィリスよ、お迎え役ご苦労。
 これにより、汝は獣の王となる。
 これより、この地は我が領土。
 すべては《冬翼様》に」

 
 ネージャは微笑むと、目にも止まらぬほどの素早さで振り返り、その青き大槍を投じた。
 しゅっ。
 大槍は風を切り、鈍い音とともに、木々の間を突進してきた青白い騎士を軍馬ごと貫いた。騎士はたちまち霜に覆われた。
 怪物のような青白い軍馬はそのまま突進しようとしたが、やはり瞬間的に凍りついた足を踏み出した途端、足から、もろい陶器のように割れた。まず、踏み込んだ足が粉々に砕け散り、倒れていく胴体と頭がその後を追った。まるで水面に飛び込んだかのように、地面に激突したところから砕け散り、きらきらと輝く飛沫を撒き散らしていく。その飛沫がまるで水面を割ってできる波しぶきのようだった。
 騎士も、地面に叩きつけられ、陶器の人形のように砕け散った。

 それはずいぶんと静かな風景だった。
 悲鳴も血潮もなかった。
 ただ、かの呪わしき騎士は砕け散った。

 
 やがて、しんしんと降り続ける雪の中、ネージャは微笑んだ。

 
「もはや邪魔者はおらぬ。
 こここそ、冬の国。
 今宵より、永遠の冬が始まるのだ」

 

 

17】雪の原

 
 雪が舞う。
 春の空に白く、白く。
 雪狼の雄叫びが上がる。
 もはや山は冬の領地。

 
 さくさく。

 
 夜明けとともに、狼煙台に上るメイアの靴の下で霜が砕けた。
 息が白い。
 夜明けの光に茜色に染まる峰の上にかかる空は澄んで高い。

 
 ひょおおお、ひょおおお。

 
 風が木々を揺らす。
 風の音を追いかけるように、凍えるような風が通り過ぎる。
 外套が不意の強風をはらんで、斜面を進む少女の体を持ち上げようとする。
 必死で地面に這い蹲り、あたりの木にしがみつく。

 
 ひょおおお、ひょおおお。

 
 風の声はまるで雪狼の遠吠えのよう。
 遥か西の峰から響いてくる。
 風見山の方角だ。

 
「ウィリス」

  少女は一言、呟いた。
 お迎え役の少年は戦いの装束をまとい、旅立っていった。

 

    *

 
「風見山のあたりがずいぶん白いぞ」
 狼煙台につめていたカディの爺がそう言った。
 指差す先、西の峰は真っ白に雪化粧している。
 そして、その麓、尾根道に近いあたりは乳のようなねっとりとした霧に覆われている。
 まるで雪雲そのものが舞い降りてきたかのような濃い霧だ。
「ゼルダ婆に伝えてくれ。雪狼が戻ってきておると」
 

    *

 
「やはりそうかのぉ」
 婆はメイアの話を聞いてうなずいた。
「冬の扉が開かれ申したか」

 

    *

 
「どういうことじゃ、婆よ」
 婆に呼び出された村長が聞き返した。
「ウィリスが危機に陥ったのじゃよ」と婆が答える。
「あれは歴代のお迎え役の中でも、特に、ネージャ様の寵愛を受けたるもの。
 おそらく、雪狼が助けに向かったのじゃ」
「雪狼が戻ってきたのはそのせいか?
 しかし、春からこの寒さでは谷はたまらぬぞ」
「わしがお迎えに行く。
 ウィリスが救われねば、あの雪雲は去らぬ。
 メイア、一緒にきておくれ」

 

    *

 
 風見山に至る街道はもはや雪に覆われていた。
 婆はメイアと、牛飼いの息子タグに荷物を背負わせて、この雪道を進んだ。
 白いものが混じる冷たい風が吹きぬけ、雪狼の遠吠えが轟いた。
 それでも、ゼルダ婆は足を止めない。
「雪狼どもが案内をしよるわ。急げ、急げと」

   *

 
 風見山の麓に近いあたりで、婆は雪狼の声に呼ばれ、道を外れた。
 まばらに木の生えたくぼ地へと向かう。
「この先じゃ」
 綿のような雪が深く積もり、木々には凍りかけた雪がびっしりと張り付いている。
 1歩踏み込むごとに、寒さがつのる。
 くぼ地を巡る木々の影には、透き通った雪狼たちの姿が舞っている。
 そして、今やはっきりと見える一匹の雪狼が婆を先導していた。
「ば、婆、おれ、今、何か踏んだ」
 雪の中に腰まで浸かりながら、牛飼いのタグが言った。
「ガチャガチャ言った」
 雪の下に埋もれた何か金属の塊。
「おそらく、兵士の鎧じゃろう」
 婆が答える。
「ここで、カルシアス様のご一行は戦いになったのじゃな。
 このくぼ地で休まれていたおりであろう。
 おそらく雪の降り出した前の晩じゃ」
「じゃあ、この雪の下には……」
 タグはさらに顔を青くした。
 婆がうなずき返す。
「ウィリスは!?」
と、メイアが問いかける。
「あれはおそらくこの先じゃ。
 雪狼が急げと言うておるからのぉ」

 
 やがて、くぼ地の奥に達した。
 そこは今も身を切るような寒風が吹き荒れ、雪が舞い続けていた。
 目を開けることもできぬほど。

 
「姫様! 先代のゼルダが参り申した!」
 婆は雪の上に平伏して、そう叫んだ。
「お迎え役をお助けいただき、ありがたきこと。
 これよりは、我らがその者の世話をいたしましょうぞ」

 
 さっと雪が晴れた。

 
 くぼ地の中央、雪野原の中央に、毛皮の帽子と外套に包まれた大柄な女性の姿が蹲っていた。
 雪狼の姫ネージャである。

 
「大儀であった」

 
 神々しい声が響き、外套がさっと払われると、そこから眠ったような少年の姿が現れた。
「ウィリス!」
とメイアが叫ぶ。
「ゼルダよ、娘よ、では、我らが王をよろしく頼むぞ」

 

 

 

18】風の旅

 

 一夜の夢だったならば、よい。
 一時の幻だったならば、よい。
 だが、それは……。

 
「村まで送ろう」
 ネージャは雪狼の群れを呼び寄せる。ゼルダ婆はためらわずに、雪狼の背にしがみついた。タグもそれに習った。メイアがためらっていると、ネージャがその手を取り、引き寄せた。もう片方の腕には意識のないウィリスが抱かれている。
「汝は我とともに」
 そうして、一際大きな一頭にまたがる。
 ネージャの外套が優しく、メイアを包んだ。

 
(暖かい)

 
 メイアは驚いた。
 雪狼の姫、と聞いて、その体はどれほど冷たいのか、その吐息はどれほど凍えるものなのか、と思っていたが、外套の中は心地よく、安らぐものであった。これならば、あの雪の中でも、ウィリスは大丈夫だっただろう。
 

「行け!」
 ネージャの声とともに、雪狼たちはざっと地を蹴った。
 そのまま、ふわりと浮かび上がる。

 
 ひゅうう。ひょおお~。風が鳴いた。
 

 雪狼は風を踏んで走る。
 その1歩、1歩が小さな雪片を撒き散らす。
 きらきらと陽光をはね返し、雪片が風に舞う。

 
「綺麗」
 メイアは思わずもらす。
「そうか」
 ネージャが満面の笑みをもたらす。
「お前もまた良き目を持つのか」

 
 風のように、雪狼は走る。
 風に乗って走る。
 風見山の麓から、尾根道を越え、グリスン谷へ続く斜面を一気に駆け下りる。


  逆落としの光景に、メイアはぎゅっと目をつむった。

 やがて、雪狼が歩みを止めた。
「ついたぞ」
 ネージャの声に、目を開くと、もう、ゼルダ婆の家の前であった。
 振り返ると、ゼルダ婆とタグを乗せた雪狼もたどり着いている。タグなど転げ落ちるように地面にへたり込んでいる。
 ネージャはメイアを下すと、その腕にウィリスを預けた。
「しばらく任せる。いずれまた会うことになろう」

 

 ネージャと雪狼たちは風に乗って舞い上がり、風見山の方角へと消えていった。
 季節外れの雪がグリスン谷の空に舞った。

 

 

19】言葉

 

 言葉が見つからなくても届けねばならない言葉がある。
 それがさだめだから。

  最初に感じたのは懐かしい匂いだった。
  ここ何年か、ずっとかぎ続けた薬草を煮る匂い。
  ああ、これは白銀草、煮出した汁を煎じ詰め、油となじませれた軟膏は……。
  ぼんやりした頭でそんなやくたいもないことを考えながら、うっすらと目を開けると、目の前にメイアがいた。
「ウィリス!」
 少女は叫んだ。その目には涙がたまっていた。
(どうしたんだい? 誰かにいじめられたのかい?)
 ウィリスはそう言おうとして、声が出なかった。
「無理をするな」
 メイアの肩越しに、婆の声が聞こえた。
「ネージャ様の加護があったからとはいえ、まる一日、雪に埋もれておったのじゃからな」

 雪?
 ネージャ様?

 ウィリスは分からなかった。
 いや、それよりも自分はなぜ、横になっていたのだろう?
 確か、僕は……。

 その瞬間、すべてが思い出された。

 鎧を着た真紅の人影が、馬上から弾き飛ばされ、宙を飛ぶ。そのまま、木の幹にたたきつけられ、複雑な金属音を立てる。まるで、濡れ雑巾のように、赤い血の跡を引いて、そのまま崩れ落ちる。

「馬鹿、ウィリス、逃げろ」
 水車小屋のヤンだ。
 その姿はすでに赤と青の血にまみれていた。水魔の血とおそらくヤン自身の血だ。
 ヤンは片手でウィリスを押しやる。
「みんな、やられた。お前は逃げろ」
 言われて、林の中に逃げ込む。
 慌てて、走り出し、「ヤンも……」と呟き、振り返った途端、ヤンが騎士の剣に刺しぬかれるのが見えた。

 振られた剣の刃がウィリスの顔の上を抜け、隣を走るダーシュの首へと叩き込まれる。丸い物が飛び、ずいぶん背の小さくなったダーシュは数歩走って林の木にぶつかり、倒れた。

「ダーシュ、ダーシュ、ダーシュ」

 ウィリスは叫んだ。

「みんなあああああああ」

ウィリスの意識はそこで再び途切れた。

 

     *

「みんな、死んだ」
 ウィリスはやっと言葉を絞り出した。
「分かっている」
 ゼルダ婆が答える。
 あれからすでに四日が経っていた。
 あのあと、村の衆がもう一度、風見山の麓へ向かった。雪の下から仲間の死体を掘り出し、すでに埋葬した。カルシアスさまの遺体は村長自身が馬車で砂の川原へ運んでいった。
 遺体の様子から、戦いのひどい様子は見て取れた。
 カルシアス隊そのものが全滅していた。
 生き残りはウィリスだけだ。
 死体の多くは水魔のおぞましい鉤爪に引き裂かれ、また、水の騎士の槍に貫かれ、剣で断ち切られていた。水の騎士や水魔は粉々に砕け散っていた。
「ひどい戦いじゃったな」
 婆の言葉に、ウィリスは激しい嗚咽で答えた。

    *

  何か話そうとすると、涙が出てくる。
 嗚咽が止まらなかった。
 そのたびに、母やメイアが抱きしめてくれた。
 それでも、それでも、あの日のことをきちんと言葉に出来ない。
 話そうとするたびに、何かこみ上げてきて、ウィリスは何も言えなくなってしまった。

    *

 

 七日が立ち、村長とともに、最初に徴兵された5名が戻ってきた。
 ジードが姿を見せると、ウィリスはまた言葉を紡げないまま、泣いた。
 父はしっかりと息子の体を抱き上げた。
 何も言わず、外に出た。

 

 すでに春の日は暖かかった。
 鳥が鳴いていた。
 風は優しく、木の葉をそよがせた。
 遠くで、牛が鳴いた。
 水車小屋の回る規則的な音が響く。
 遠くで、子供の声が聞こえた。

 
 やがて、そっと畑の端に、ウィリスは下された。

 
 ゆるやかな丘一面に、青々とした小麦の葉が揺らめいていた。
 その向こうには芋畑やとうきび畑。
 さらに、向こうにはゆるやかな川面が見える。

 
「戻って……きたんだね」
 ウィリスはそう呟いた。
 ジードはうなずく。
「ああ、俺もお前も帰ってきたんだよ」

 

 

20】間奏02: 棘のある雛菊

 

 雪に悪意はない。
 風に悪意はない。
 されど、積もった雪は家を潰し、冷たい北風は旅人を凍えさせる。
 そういうものだ。

 
 殺意、というものが単独で存在することはありえない。
 何かが何かに向けて放つものである。
 しかし、その日、風見山の麓の木々は一瞬の殺意の波に現れた。

 
 どこからともなく、波の音が響き、やがて、雪解け水のたまった池がざっと輝いた。
 次の瞬間、池の水面に反射する光の中から一人の女性が飛び出し、池の縁に降り立った。
 女性、いや、少女と言えるだろう。
 愛らしくも無邪気な笑顔をたたえた少女である。
 レースを多用したゆったりしたドレスをまとっている。年齢は12か13ぐらい。
 人形のように綺麗な少女。
 いつぞや、ウィリスが峠道で出会った少女のような「何か」。
 それが、池の水面から突然、出現したのだ。

 

 そして、それに応じるかのように、殺気を帯びた北風が木々の枝をざわめかせた。

 
 少女は一瞬、その殺気に押されるようにふらついたが、しっかりと池の縁に立った。
 そのまま、林の中へと進んでいくと、雪が残っていた。
 春が終わろうとしているというのに、この林の中は今だ冬の様相だ。
 振り返れば、風見山は今も白く雪化粧している。

 
「もはや、ここは冬の領土であるか」

 
 少女はひとり呟き、両手を合わせ、目を閉じた。

 
「死者の中に、あの子供の影はなし。
 ほお、水の騎士をこれほど完全に砕かれるとは……」

 

 少女は微笑んだ。
 艶然と。
 また、風が殺気をはらんで、粉雪を巻き上げた。

 
「汝らの主を傷つける気などないわ」
 少女は虚空に語りかける。
「我らも、《永遠の冬》に仕える者。
 その証はアヴァターにてお見せいたしましょう」
 

 風の中に何かがささやいた。

 少女は答えもせずに、雪野原に背を向け、池の縁まで戻ると、上代語の詠唱を始めた。古き時代、妖精騎士と神々が使いし、魔力ある言葉が紡がれる。その力は少女の周囲にきらめき、渦巻き、やがて、鏡のような水面に広がった。詠唱に答えるように、どこからか波音が響いてきた。次の瞬間、少女の姿は消え、詠唱の声も消えていった。

 あとはただ季節外れの寒風が吹きすぎていった。

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