永遠の冬 第21話~30話
【21】感謝
これこそが我が故郷。
ウィリス11歳の夏は、ゆっくりと始まった。
去年から予定していた通り、ウィリスは婆とともに、バッスルの都グレイドルへ向かうことになった。そこには、冬翼様に近しい神、《冬の統領ル・ウール》様の大社がある。《冬の祠》という。そこで、さらに冬翼様について学ぶのが、今回の目的である。
最初に、ゼルダ婆がそれを言い出したのは春の終わりだった。
風見山の一件から一月ほどが経ち、すでにウィリスは元気を取り戻していたが、大事を取ってゼルダ婆はもう一月ほど出立を延ばし、しばらく、尾根の狼煙台と往復するようにいった。
最初は尾根を上がる途中で息が切れた。
坂の途中でへたり込んでいると、メイアが上がってきた。
「婆が見て来いって言ったのよ」
メイアは笑いながら、汁気のたっぷりした果実を差し出した。茜色の皮をむいて、少し酸っぱい汁と身をすする。ほんのりした甘みとすっぱさが口一杯に広がった。
「おいしいね」
メイアの言葉にうなずき、ウィリスは立ち上がった。
「行こう、狼煙台で少し練習があるんだ」
風にウィリスの歌が響く。
冬翼様へ捧げる祝詞に節をつけたものだ。
狼煙台の脇にある、ちょっとした広場でウィリスは、祝詞を謡いながら、舞う。
「ありがとう、と言ってなかったような気がするんだ」
ウィリスはメイアを振り返る。
「ありがとう?」
狼煙台の隅に腰掛けて、舞いを見ていたメイアは小首を傾げる。
「誰に? ウィリス」
「君に、だよ」とウィリス。
「あのとき、迎えに来てくれてありがとう」
「ううん」
メイアは軽く首を振って、狼煙台から地面に飛び降りる。
「私も婆も気づいただけ。
あなたを助けたのは彼ら」
両手を上に向けて見上げる。
その上空、風の中にはいつの間にか、半透明の雪狼が舞うように飛び交っていた。
「あなたの舞いと歌が届いたのね。
あなたのありがとう、が」
「うん」
ウィリスはうなずく。
そして、舞いをやめて、メイアのほうに1歩踏み出す。
「雪狼にも、ネージャ様にも、感謝している。
ありがとう、雪狼たち。
ありがとうございます、ネージャ様」
もう1歩。
「でもね、メイア。
僕は、君に言いたいんだよ。ありがとうってね」
「ウィリス」
メイアは少年の顔を見つめた。
いつの間にか、少しだけしっかりしたような気がする。彼の父ジードに似てきたかもしれない。
ウィリスは正面からメイアを見つめた。
「ありがとう」
狼煙台からは、グリスン谷が見下ろせる。
細い谷川に沿って広がる小さな谷だ。
丘の上に広がる畑。林檎林や小さな牧場、川にかかる水車小屋。
「また、修行の旅に出るの?」
「うん、今度は少し長くなる」
「どのくらい?」
「たぶん秋の半ばまで。
婆は冬翼様のお迎えまでには戻れと」
「寂しいね」
「寂しいね」
「……」
夏のはじめ、ウィリスはグレイドルへ旅立った。
【22】弔いの声
僕は見える。彼らを。
ウィリス11歳の夏。
グリスン谷を旅立った婆とウィリスは、砂の川原に至り、ミネアス様の館に立ち寄った。グレイドルへの修行の旅に出るための挨拶である。
「グリスン谷の祭祀介添え役、ゼルダ。
当代お迎え役ウィリスの修行付き添いにて、王都グレイドルへ向かいまする」
婆が口上を述べる。
村の守護神、雪狼の姫ネージャのお墨付きを得たウィリスはすでに、当代のお迎え役である。先代のゼルダはその後見人たる祭祀介添え役となっている。
「お役目ご苦労。
砂の川原代官、ミネアスの名において、グリスン谷御当代を歓迎する」
ミネアスはいかめしい顔でそう答えた後、やや青ざめた顔で微笑んだ。
「館の一室を用意したゆえ、くつろぐがよい。
それから、風見山の一件では息子が世話になった」
風見山の麓で水の騎士によって殺されたカルシアスは、ミネアス様のご嫡男である。
「ウィリス。幼少の身で苦労したな。
もし、良ければ、息子の末期のこと、語ってはくれぬか?」
そこで、ミネアス様は横に控える奥方とご家族に目を向けた。
上品な奥方は、もはや30を越えられておられるであろうか、その横にはカルシアスさまによく似られた若き騎士が2名と御令嬢が付き添っておられる。若き
騎士は二人とも成人されておられたが、おそらく18歳にもなっておられぬだろう。ご令嬢はウィリスと変わらぬ年である。そして、周囲にはカルシアスさまが 率いていたのと同じ赤揃えの兵士たちが集っていた。ゾークたちの同僚であろう。
「さあ、ウェリス」と婆はうながした。
二人とも、このことは予期していた。
ジードが戻り、ウィリスが言葉を取り戻した数日後、婆はウィリスに言った。
「生き残った者には義務がある。
死者のことを家族に伝えるのだ」
そこでじっとウィリスの目を見た。
「幼いお前には酷なことかも知れぬ。
だが、お前は御当代であり、ネージャ様の御加護で生き残った。
その感謝を形にするのだ。
お前が語る言葉で、死者の魂は弔われる」
最初に、婆の薬草小屋を訪れたのは、ダーシュの母親エナだった。
息子の死に様を聞きたいと言って涙を流した。
「僕はダーシュの横にいました」
ウィリスはゆっくりと言った。
水の騎士と水魔の襲撃を話した。話しながら、ダーシュが水の騎士に殺された瞬間を思い出して声が詰まった。エナは涙に咽びながら、ウィリスの体を抱いた。
「ありがとう、ありがとう」
エナは繰り返した。
泣きながら、嗚咽を漏らしながら。
エナが帰った後、ウィリスは婆を振り返った。
「見えました」
婆がうなずいた。
「あそこに」
指差すのは薬草小屋の隅。
ウィリスとエナが泣きながら、ダーシュの話をしている間中、小屋の隅、暗く光の届かぬあたりにずっとひとつの影が座っていた。
悪しきものではない。
そう感じた。
その影がウィリスに色々な言葉を促した。
おぼろげであった出仕の軍行の様子が細かに思い出された。ダーシュがどんな様子で旅先で野営したか、初めての軍行で苦労したか、あるいは、カルシアス様と赤揃えたちがダーシュに剣を教えようとした様子。
エナが薬草小屋を去った時、影はもう消えていた。
「それがお前のお役目なのじゃよ」
数日後、水車小屋のヤンの妻キアラがやってきた。残された6歳の息子がついてきた。
彼らもまた、一家の主の死を聞きたがった。
「ヤンは僕を助けてくれた」
ウィリスの言葉にキアラは泣いた。息子は涙目でじっと母親とウィリスを見つめていた。
ヤンの死に触れた時、ウィリスも声に詰まった。キアラもまた、ウィリスを抱きしめた。息子も一緒に抱いた。
それから、何度か日を置いて、村人たちがウィリスを見舞い、死んだ息子や父、兄弟の話を聞いていった。百人ばかりの小さな村だ。村人の半分以上が死んだ者の血族である。
彼らが訪れるたびに、薬草小屋の隅に影が集い、物語が終わるたびに消えていった。
「それは風見山の麓でありました」
ミネアス様の前で、ウィリスはとつとつと話を始めた。
部屋の隅に集った影がひとつひとつ消えていくのには、夜遅くまでかかった。
【23】ヴェイルゲン
崇めよ、冬の風を。
讃えよ、果て無き眠りを。
砂の川原から、バッスル侯国の首都グレイドルへ向かうには三つの尾根を越えなければならない。徒歩では半月近い行程である。
一つ目の尾根を越えた先は、グリスン谷と変わらぬ小さな村しかない山間の土地だった。砂の川原へ続く分だけ、道行きは盛んで、一日に2、3度、騎馬の商隊とすれ違った。それぞれの村は砂の川原と同じく、プラージュの神々を崇め、グリスン谷の《冬翼様》とは類縁にあったので、夜は村の祠に泊めてもらった。
「こちらが、当代お迎え役でござるか?」
いずれの村でも、司祭がウィリスと婆を丁寧に迎えてくれた。
わずか11歳の少年を下にもおかぬ歓待であった。
「お迎え役にして、獣の王たるウィリス殿。
御身の件はすでに我らプラージュの神殿には伝わっております」
砂の川原にあるプラージュの神殿によった際も、神殿長がそう言った。
「あの日、雪狼たちが伝えてきた。
獣の王が生まれ、風見山は永遠の冬の領土となったと」
神殿長はウィリスの前に跪いた。
「神殿長、辞めて下さい」
ウィリスはかつての恩師に駆け寄ろうとして、婆に止められた。
「これが汝の定めじゃ、ウィリス」
それから、婆は神殿長に向かい、膝を屈する。
「歓迎痛み入ります。
我ら、これより『冬の祠』にて修行を致しますが、当代はまだ若年の身、よろしくお願いいたします」
雪狼たちの言葉はプラージュの社を司る司祭たちに伝えられていた。
彼らは歓待をしつつも、心配げに問いかける。
「永遠の冬とはいかなるものでありましょうや?」
しかし、いまだ、ウィリスに答えはない。
確かに、風見山は夏に至る今も雪に覆われた冬の山になった。それは雪狼の姫ネージャの領地になったのであるからしかたないことである。冬の魔が住まう場所はそうなるものだ。バッスルの北、アヴァターの高き砦にも冬の力が封じられ、夏でも解けぬ雪原が広がると言う。
二つ目の尾根を越えるとずいぶん雰囲気が変わってきた。
広い谷が広がり、その中央には街道を押さえるように城壁を持つ街があった。高い塔の上には弓兵が立ち、旗が翻っていた。バッスルの宝玉の旗に加え、龍の旗が翻る。
ヴェイルゲンである。
「ここからは、ネージャ様の地ではない。プラージュの地でもない。
冬の頭領ル・ウールと、ライエルの地だ」
ル・ウールはバッスル本国で崇拝される冬の神である。《冬翼様》の社では、ネージャ様の叔父御となっているが、血縁はないとも言う。それでも、《冬翼様》とはご縁があり、代々の当代はバッスルの都グレイドルで、仕上げの修行を行うことになっている。ライエルは田畑の神々で、狩人や杣の少ないあたりで信じられているという。
城に近づいていくと、開かれていた城門から、異様な影が二つ飛び出した。
馬ではない。
馬よりもさらに大きい。
鱗に包まれ、巨大な顎を持った銀と灰色の巨大なトカゲといえなくもないそれは2本足で立ち、まるで鶏か何かのような感じで素早く走ってきた。
「婆!」
ウィリスは思わず、婆にすがった。
「ヴェイルゲンの龍騎士じゃ」
ウィリスも話だけは聞いたことがある。ヴェイルゲンには遥か南方、龍の都スイネから、やってきた小型の龍に乗る騎士たちがいるという。バッスル西方を守る軍事拠点である。先日の騒ぎで出仕した父ジードはここに通じる二つ目の尾根まで来たそうだが、ヴェイルゲンの谷には入らなかったという。
確かにその背中には銀の鎧をまとった騎士が乗っている。槍を片手に、もう片方で巧みに龍を操っている。龍の鱗は灰色で、そこに銀飾りのついた皮の装具が着けられている。龍の頭部に見える赤い羽根ははみについた羽飾りだ。
龍に乗った騎士たちは、ウィリスらの1歩手前で止まり、槍の石突きで街道をカチンと打った。
「グリスン谷のお迎え役ウィリス殿と、介添え役ゼルダ殿であられるな」
【24】黒と白
理性とは、論理ではない。
最適を求める本能である。
「グリスン谷のお迎え役ウィリス殿と、介添え役ゼルダ殿であられるな」
ヴェイルゲンの龍騎士は、面頬を上げ、荒々しい微笑みを見せた。
「我が主がお待ちです」
龍に付き添われて歩くというのは不思議なものである。
騎龍は、巨大なトカゲのように見えて、犬に似た獣臭がする。
肉を喰らうのであろうか?
人の倍はありそうな頭の大部分が突き出した巨大な顎だ。
そこには尖った牙が列をなしている。
胸から伸びる腕は、その体と比べると、とても小さなものだが、その鉤爪は鋭い短剣のようだ。
ふぅふぅという熱い息は、これが野獣であることを、ウィリスに突きつける。
先ほど、一瞬、開いた様子から言って、それが暴れだしたら、ウィリスの頭など一かじりであろう。
(怖いか?)
ウィリスの頭上で北風がささやいた。
雪狼だ。
(弱ければ、食われる)
弱い者が食われ、強い者が食う。
だから、強くあらねばいけない。
衰えた者が死に、若く強い者にその場所を譲る。
若い者も、弱い者、運の無い者から脱落していく。
(殺すか?)
そして、雪狼はウィリスを守るため、すべての敵を排除する。
なぜならば、今や、ウィリスは獣の王なのだから。
「大丈夫」
ウィリスは自分に言い聞かすように呟いた。
強くあらねばならない、と、婆に言われた。
「お前の声は、姫様に届く。
泣けば、姫様は心配しよう。
本当に必要な時まで、怖れる声を上げてはならない」
婆の言葉を守り、ウィリスは怖い気持ちを抑えた。
少しおちついて見ると、騎龍は美しい生き物であった。よく磨かれた緑と茶の鱗は、虹色に光り、巨大な目玉も水晶のようである。尾は太く、うねるように後方にたなびく。地面には落ちない。それが妙に優雅にも見えた。
龍騎士に先導され、城の内に入ると、そこはしっかりした石作りの壁が続く堅固な要塞である。ヴェイルゲンの作法なのか、それぞれの窓は小さく、また、鉄格子がしっかりと嵌められている。
中央の城館の前で、龍騎士たちは石造りの厩に消え、衛兵たちが案内して、城館の中へと導かれた。
着いたのは、広間である。
奥の玉座には、この地の領主とおぼしき、壮年の貴族が座している。
「カイル・ヴェイルゲンである。
この地を拝領し、ヴェイルゲン騎士団の団長を勤めておる。
グリスン谷の当代お迎え役であるな?」
男の声は鋭く、響き渡った。
「は、ウィリスにございます」
ウィリスと婆はその場に伏せた。
「急がせて済まぬ。
到着次第、お前の顔を見ねば、落ち着かぬと申す者がおってな」
その声に応じて、横に控えていたローブ姿の男が二人立ち上がった。一人は、禿頭ながら、黒々とした髭を蓄えた男である。胸には、黒い剣のように見える襟留めが輝いている。おそらくは黒剣の星座の印。生命と始まりの秩序を司る。
もう一人はさらに異様だ。
髪も肌も唇さえも死人のように青白い上に、その目のあたりは木で作られた仮面に覆われている。仮面は横長の楕円形で、両目を結ぶあたりに、一本の細い筋が引かれている。その胸の襟飾りは、白銀の翼。あれは翼人の紋章だ。死という名を持つ、終わりの秩序を表す。
(魔道師)
ウィリスはぞくっとした。
婆から話だけは聞いていた。
世界の中心で、魔法を学ぶ学校がある。魔道師学院である。世界の叡智を集めたその山の奥で長き研鑽を終えた者だけが魔道師の名を名乗ることができる。それはおそるべき力の使い手であるという。
「しかし」とゼルダ婆は、旅の途中で言った。
「あれらはあまりにも遠い世界で戦っておる。我らとは違う生き物じゃ。
グリスン谷のような小さな谷間のことなど、あれらには関わりはない。
あれの敵は天地そのものなのじゃ」
魔道師は、この世界の魔法と同じく、12とひとつの星座に属するという。
禿頭の男はおそらく、生命を支配する黒剣の魔道師、仮面の男は死を司る翼人の魔道師であろう。
そして、その二人は無言で、ウィリスの顔をじっと見た。
ウィリスは背筋が凍った。
冷たい視線。
北風や雪とは違う冷たさがそこには宿っていた。
禿頭の男の目には、人としての感情が欠けていた。まるで、魚か虫でも見るかのような視線だ。
仮面の男は目こそ見えなかったが、その視線もまた別の冷たさが宿っていた。まるで、口から体の中に忍び込み、心臓を凍えさせてしまいそうな冷たさ。仮面をかけていてなお、この鋭さを持つというならば、仮面を取った瞳など、直視しただけで死んでしまいそうだ。
冷たい視線はそのまま、ウィリスを貫き、その背後へと貫こうとする。
(殺すか?)
雪狼の声がすぐ耳元で響いた。
何か、答えようとした瞬間、婆がウィリスの前に出た。射るような視線が途切れた。
「お久しぶり、ディルス殿」と婆。
「当代はまだ11歳。修行中の身でございます」
「ああ、失礼」と禿頭の男が詫び、視線は消え去った。
「つい、おとなげのないことをしてしまった。
さすが、グリスン谷の当代様である。優れた資質をお持ちだ」
そこで、禿頭の男が微笑む。
「グリスン谷のお迎え役殿。我が名はディルス。黒き剣に仕える者。
お会いできたことを感謝します」
そして、仮面の男が静かに頭を下げる。
「バスカレイドです。学院より参りました」
そこで、婆がぴくりとした。
「お久しぶりにございます、ゼルダ老師」
【25】バスカレイド
世の中に、真実など無い。
誰かが目撃しない限り、それは起こっていない。
しかし、我らは見る。
ウィリス11歳の夏。それはヴェイルゲン騎士団の城塞で試練の時を迎えていた。
ヴェイルゲン候の宮廷でウィリスと婆を迎えたのは、二人の魔道師。禿頭髭面の男は黒剣の魔道師ディルス、白色で仮面の男は翼人の魔道師バスカレイド。
仮面の男が静かに頭を下げる。
「バスカレイドです。学院より参りました」
そこで、婆がぴくりとした。
「お久しぶりにございます、ゼルダ老師」
「ラーン・カイル殿は御息災か?」と婆は堂々と答える。
ラーン・カイルは、《死の王》とも呼ばれる学院の大立者である。かつて、翼人座の塔の長であったが、今は引退し、北原の戦乱を収めるべく外交使節として活躍している。
辺境の守護者とはいえ、バッスルとスイネの双方に通じるヴェイルゲン卿は、その名の重みを感じ取っていた。
むしろ、その会話を理解していなかったのは、ウィリス自身であった。
「は」とバスカレイドが膝を折る。
「辞めておくれ」と婆が歩み寄って、魔道師を立たせる。
「学院の魔道師が、田舎の司祭などに頭を下げるものではない」
「しかし」とバスカレイドが言う。「いえ、差し出がましいことでした」
その後、ヴェイルゲン卿は、風見山の一件に関して問いただしたが、その舌鋒ははなはだゆるやかなものであった。話の大半を婆がしても、ウィリスに話を振ることはなかった。
そして、最後に、ヴェイルゲン卿が仮面の魔道師に向かって聞いた。
「得心行かれたか?」
仮面の魔道師は無言でうなずいた。
一刻の後。
城内の一室に休息の場を与えられたウィリスと婆の前に、再び、黒と白の魔道師がいた。
「さて、どちらから、話を聞いたものかな?」
と、婆が言うと、禿頭のディルスが手を振って、バスカレイドを促す。
「学院の意向を、お先に」
「私は学院の使者ではございませぬ。ラーン・カイル師の命に従い、バッスルの安定を担当するのみ」
その言葉には虚飾も自負もない。
(まるで人形のようだ)
と、ウィリスは感じた。
ぞくぞくした。
この人は本当に、人だろうか?
「学院は風見山の一件を知っておりますが、15人委員会はこれを重視してはおりません。なぜならば」と、魔道師はウィリスを見る。
その瞬間、視線がずいぶん優しくなったように感じた。
「彼らは、この少年が《獣の王》とは認めておりません」
ウィリスは驚いた。
いや、話の流れが分からなかった。
なぜ、《冬翼様》やネージャ様が選ばれたことに、魔道師学院が口を出し、認める、認めない、の話になるのだろうか?
「学院など関係ない」と婆。
それから、婆はウィリスを振り返った。
「お前にも、そろそろ話しておかねばならぬようじゃな。
《予言》のことを」
「予言?」
「9528年 白の風虎 獣の王、西に至り、冬を解き放つ」
と、バスカレイドが唱える。
「これが予言だ」
今年は9825年、青の海王。白の風虎とは3年後である。
「14の年」と婆が言う。「お前は西に向かい、冬を解き放つ。
それが予言だ。だが、いまだ、お前と予言の中の《獣の王》が同一であるかどうか定まってはおらぬ。他にも、《獣の王》と呼ばれるだろう男が何人も北原をさ迷っておる」
そこで、婆はディルスのほうを見る。
「その一人が俺だ」と、ディルスが微笑む。
「獣師、と言っても坊主には分かるまい。魔獣の創造者、怪物の王」
次の瞬間、4人の前に一匹の黒猫が現れた。
漆黒の黒猫。
ただ、その尾はふさふさした毛ではなく、おぞましい鱗に覆われた毒蛇であった。
「ディルス、格好をつけるな」と黒猫が嗄れ声で笑う。
「所詮は学院につかまった籠の鳥。この地で、龍の品種改良をするだけ」
そこで黒猫はウィリスのほうを向いた。猫の首がしゅるるると伸びていく。
ウィリスはわっと、後退した。
その様子を見て、くすくす笑いながら、黒猫の魔獣はディルスを振り返る。
「ああ、いい素材じゃないか?
これなら、ご主人様もお喜びになるな」
「その許可は出ない」と、バスカレイド。「おそらく永遠に」
「それで、ラーン・カイル殿の目論見は?」
婆の問いかけに対して、仮面の魔道師は微笑んだ。
「ウィリス殿がすこやかに修行期間を終え、一人前の《お迎え役》となられることを祈っております。《冬翼様》の心を安んじ、炎と氷の周期を崩されぬことを。
学院はすでに、東方と北原だけで十分に多忙ですから」
【26】三人の魔道師
声が聞こえる。闇の向こうから。
ウィリス11歳の夏。それはヴェイルゲン騎士団の城塞で試練の時を迎えていた。
ヴェイルゲン候の宮廷でウィリスと婆を迎えたのは、二人の魔道師。禿頭髭面の男は黒剣の魔道師にして魔獣製作者ディルス、白色で仮面の男は翼人の魔道師にして死の王ラーン・カイルの使い、バスカレイド。
バスカレイドの話はまだ続く。
「何も求めぬ割には仰々しい出迎えではないか、バスカレイド」と婆。「バッスル侯国西方防衛の要たるヴェイルゲン城にて、二人の魔道師に迎えられたと言えば、ウィリスに注目する者もおろう。あのヴェイルゲン卿とて馬鹿ではあるまい」
「で、あれば、私も助かります」
バスカレイドはそこで顔をディルスに向ける。
「獣師殿は、この構図、どう見られる?」
「天秤の平衡」
ディルスは間を置かずに答えた。
その答えに、婆は肩をすくめる。
「反対側には何が乗っておる?」
と、仮面の魔道師を振り返る。
「次なる時代が」
バスカレイドはさらりと答える。
「大仰な話だな」と婆。
しばらくして、婆はウィリスを振り返った。
「ウィリスよ、お前は非常に幸運じゃ。
ここには世界の叡智を極めた魔道師学院の魔道師が二人もいる」と婆。
「三人では?」と、黒猫が言う。
「お前も数えて欲しいのか? もはや、人でもなかろうに」と婆。
「まったくだ」と、猫は婆の膝に飛び乗り、丸くなる。
「一人は、」と婆はバスカレイドを指差す。「世の理を極め、北原の各地を旅した学院の使徒。翼人ゆえ生命にも死にも通じておる。わしらが知らぬ世界を幾つも覗いている」
バスカレイドは軽く会釈しただけで何も言わなかった。
「もう一人は、」と婆はディルスを指差す。「生命の理を突き詰めたゆえに、闇を知る者。この二人で分からぬことなどない」と婆。「何か聞きたいことがあったら、言ってみるとよい」
ウィリスは一瞬、悩んだ後で、聞いた。
「冬はなぜ寒いの?」
他にも聞きたいことがなかった訳ではない。さきほどから婆と二人の魔道師が交わしていた難しい会話の意味を聞きたかった。いや、黒猫の話、龍の話、あるいは、婆とバスカレイドの関係など聞きたいことはいくらでもあった。
だが、それらは聞いてはいけないような気がした。
婆が言わないことには意味がある。
ウィリスにとって、まだ早いことはそう言って教えてくれないが、必要な時には婆が話してくれる。
だから、直接、関係ないおぼろげな疑問を口にした。
「世界の根源に関する質問をするか?」とディルスが独り言のように漏らす。「ここは、バスカレイド殿、お得意の分野では?」
「魔道師学院においても、議論が残っている問題だ。学院における仮説はいくつかある」とバスカレイドが口を開く。「戦車座と風虎座の魔力の変動周期であるとか、我々の住む世界と、太陽の位置関係によって決まるというものだが、君ならば、もっと正しい答えを知っているはず」
「冬翼様?」とウィリス。
「かつて、星の神々は、魔族を封じるにあたり、いくつかの強き力の者を、世界そのものに封じた。君が《冬翼様》と呼ぶ存在はその一人である。《冬翼様》はこの世界の温度を調整するために、存在する。世界が燃え尽きぬように、世界が冷え過ぎぬように、空の道を旅するという。
つまり、君の仕事は、世界にとってとても重要だということだ」
会話はそこで途切れた。
ゆるやかな沈黙の中、外では日が傾き、空はゆっくりと茜色に染まっていく。
「かつて」と、バスカレイドは言った。「あるお方が私に問われました。
『何故、夕陽は赤いのか?』と。」
ウィリスには仮面の魔道師がどうして、そのような話を始めたのか、分からなかった。少しだけ懐かしがるような優しさがその口調にはあった。
「私は、今と同様に、学院の仮説を説明しました。
そうしたところ、彼はこう言われました。
『さすがに、魔道師学院の回答は面白くないな』と」
バスカレイドの口調は淡々としたものであったが、ディルスはかすかに笑い声をもらした。どうやら、彼には思い当たる場所があるようだ。
「それで、どう答えたのだ、貴殿は?」とディルス。
「私はこう答えました。
『面白味のあるお答えが必要ならば、吟遊詩人にでもお聞きなされよ』と」
淡々とした口調だった。
「それは、おぬしの記憶か?」と婆が聞いた。
「ええ」とバスカレイドは即答した。
「ならばよい」と婆。「それならば」
【27】記憶の厚み
自分が誰であるかなど、どうやったら確認できるというのだ。
過ごした日々の厚み以外に、何がそれを証明してくれるというのか?
ウィリス11歳の夏。
ヴェイルゲン城で出迎えてくれた魔道師のひとり、仮面のバスカレイドは、婆から意味深な言葉を投げかけられた。
「それは、おぬしの記憶か?」と婆が聞いた。
「ええ」とバスカレイドは即答した。
「ならばよい」と婆。「それならば」
「記憶とは」とバスカレイドは返した。「とても曖昧なものです。
人間が把握している情報というのであれば、それは非常に広範囲のもので、しばしば恣意的に加工されます。我々魔道師は、幻視によって多くの情報を得ますので、私の記憶の中には、幻視を通して体験した他者の人生が混じっています。
それでも」
バスカレイドは微笑む。
「夕焼けについて、問われたのは私の記憶です」
婆は何も言わなかった。
やがて、夜になり、二人の魔道師は去っていった。
「あれは一体、どういう話だったのですか?」
ウィリスは婆に聞いた。昼間の魔道師たちとの会話についてのことだ。
「分かったか?」
「ううん、全然」
ウィリスには何も分からない。
「彼らの会話には真実など無い」と婆が言う。
「現れたことだけに意味がある」
ウィリスはますます、混乱した。
「お前は、これで魔道師たちを得体の知れない何かだと思うだろう。
触れる時には気をつけることだ」
「分かった……婆」
ウィリスは不安だった。
そこで婆はウィリスをぎゅっと抱きしめた。
「魔道師は、人の心に罠を仕掛ける。
だが、お前がここまで育ってきたグリスン谷を忘れるな。
何かあったら、谷のことを思い出せ」
ウィリスの脳裏にグリスン谷の風景が浮かんだ。
父、母、婆、メイア……。
そして、空高く飛ぶ《冬翼様》。
ネージャ様と雪狼たち。
「言葉に惑わされそうになったら、風に耳を澄ますのだ。
お前には雪狼がついている。
焦って、走り出すな。
冬の力は常にお前の回りにある」
答えるように、窓の外で風がうなりを上げた。
【28】辻馬車
出会いは偶然。
ウィリス11歳の夏。
ヴェイルゲン城での滞在は一夜で終わった。騎士団長はあっさりと出立を許し、ウィリスと婆は翌朝、城を辞した。
騎士団長はグレイドルまでの辻馬車を世話してくれた。
「わしらには足があるというに」
婆はそう言いながらも、城下の馬車宿へと向かった。
「これも、政治ですよ」
見送りについてきたバスカレイドがそう言う。
「学院と良好な関係あり、とあれば、便宜を図る者も現れます。
あなたがたには全く関係ないところで恩恵が乗じる。
それでよろしいではありませぬか?」
「関係ない場所で悪意も生じる」と婆が切り返す。
「おぬしがどこかで拾ってきた憎悪をこちらに向けられてはたまらぬ」
「波は遥か大海の対岸から寄せてくるもの。
風は遥か彼方より吹き寄せるもの。
波風を怨んでもしかたありませぬ」
婆はもはや言い返しもしなかった。
「いずれにせよ、馬車はありがたい。
この子は馬車で旅するのも初めてじゃ」
ウィリスは辻馬車で旅するのは初めてだった。
「騎士団長閣下に礼を言っておいてくれ」
辻馬車は宿屋の中庭に止まっていた。
6頭の馬をつないだ後ろに、大きな箱型の客席がつながれている。六つの車輪を備えた大型の客席だった。
「騎士団長のお客だ」
バスカレイドの声に、車輪の様子を見ていた御者が両手を開いて迎えた。
「さあ、乗ってくれ。他の客ももう乗っている」
客車は腰ほども高い。
梯子を登るように入り込んだ客席は、向かい合わせの座席が設えられていて、すでに数名の客が詰め込まれていた。商人らしい夫婦、役人らしい二人の男、別に、若い男がひとり、そして、黒いローブに身を包んだ禿頭で髭面の男。
「ディルスではないか?」
婆の声に、黒剣の魔道師は片手を上げて挨拶した。
朝から姿を見ないと、思ったら、辻馬車に先回りしていたようだ。
「俺のような職業は色々荷物が多い。ゆえに今朝は失礼した」
婆とウィリスがディルスの横に座り込むと、馬車はさっそく走り出した。
「紹介しておこう」とディルスが調子よく話し始める。「城下の商人ポンティ殿とその奥方サフィ殿。薬種問屋だ」
ポンティは30がらみの太った男で、ずいぶんと景気がよさそうだった。ヴェイルゲン騎士団付きの魔道師として、城内では有名なディルスは、薬種問屋のポンティとはずいぶん親しい間柄のようだ。ポンティは、婆がグリスン谷の司祭格と知ると、会釈を返して来た。
「あのあたりはいい薬草が取れますなあ。いずれ、伺おうと思っておりました」
「10年ばかり前に」と婆。「お父上が一度、おいでになられましたな」
「おお、そうでしたか」
妻のサフィは若く控えめで微笑み返してきただけだった。
「書記官のフェリクス氏と財務官のケイディ氏。侯国の各地を巡察しておられる」
フェリクスは痩せて背が高く、ケイディは背が低く、猫背だった。
「グリスン谷は数年前にうかがいました」とフェリクス。
「よい谷ですね」とケイディ。
二人とも人当たりのよさそうな笑顔を浮かべた。
「そして、ダナの丘のラゼ。ウィリスと同じく《冬の祠》で修行されるそうだ」
若い男は緊張した面持ちで、深い礼を返してきた。
「グリスン谷に、獣の王が生まれたとのこと、聞き及んでおります。
同乗できますことを感謝いたします」
過剰に丁寧な挨拶であった。
慇懃無礼という訳でなく、緊張したためであった。
「お気楽になされよ」と婆。
「当代のウィリスはまだ11歳と若輩者、修行中の身にございます。
兄弟子として、ご指導いただければ幸いです」
「よろしくお願いします」とウィリス。
しかし、ラゼの緊張は解けない。
「いや、しかし、ウィリス殿は……」
司祭修行中の青年にとって、すでに、雪狼の姫から認められた少年は生き神にも等しいようだ。
「はあ、人間は大変だねえ」
ディルスの懐から、黒猫が顔を出した。
ラゼがびっくりし、サフィが口を覆う。二人の役人とポンティはすでに知っていたのか、驚いた様子はなかった。
「こら、シアン」
ディルスが軽くたしなめるが、猫はそのまま、懐から飛び出して、婆の膝に飛び乗り、丸くなる。
「ああ、私はシアン。このディルスの使い魔ね」
それから、猫はラゼのほうを見て笑った。
「ねんねのウィリスぐらいで驚いていちゃダメよ。
あんただって、結構、才能ありそうじゃない?」
【29】準備
他人という鏡は己の性根を映す。
微笑めば、美しく、憎めば、おぞましく。
ウィリス11歳の夏。
グレイドルまでの辻馬車の中で、一人の青年に出会う。
その名前はラゼ。ダナの丘からやってきて、ウィリスと同じ《冬の祠》で修行する予定の青年だ。
「さ、才能ですか?」
黒猫に名指しされたラゼは緊張を隠せないまま、言った。
「い、いえ、すでに《冬翼様》に見出されたウィリス様の前でそんな」
すでに、ウィリスの噂は、冬の祠の司祭たちには広がっているようだ。どうしようもない。
「どうやら、騎士団長殿はずいぶん親切なお方のようだ」と婆が言った。「同じ辻馬車に《冬の祠》の先達がいるとは僥倖。この機会にぜひ、神殿のしきたり、言葉使いなどについて教えを乞えばよい、ウィリス」
婆はゆったりと微笑んだ。
戸惑うウィリスに向かって、魔道師がささやく。
「世の中に偶然など、ありはしないのですよ」
ウィリスにもやっと分かった。
この辻馬車そのものもまた、誰かの仕掛けなのだ。誰かがウィリスにさまざまなことを教え込もうとして、この人々を同じ辻馬車に乗せた。
誰が?
ウィリスに思いつくのは、ディルスとバスカレイドを派遣した魔道師学院か、あるいは、騎士団長ぐらいしかない。おそらく学院。仮面の魔道師バスカレイドはその仕掛けを用意するためにヴェイルゲンに現れ、ディルスに同伴を命じたのだろう。
ウィリスは不安になったが、婆は微笑んでいる。婆の顔には「もらえるものはもらっておけ」と言わんばかりの微笑が浮かんでいる。
(恐れるのは弱いからだ)
雪狼の声がかすかにささやく。
冬の獣たちの考え方は単純だ。戦い、喰らい、殺す。その前提で他の存在を見る。今、戦う敵かどうか? 今、殺して喰らうべき餌かどうか?
ウィリスは信じることにした。
ラゼもディルスもポンティ夫妻も二人の役人も、嘘を伝えに来たのではない。《獣の王》が、侯王の都に入る前に学ぶべき機会を与えにきたのだ。
これも修行であり、婆はそのためにグレイドルへとウィリスを連れていくのだ。
辻馬車の中は旅の間中、再び修行場となった。
ラゼには、《冬の祠》のしきたりを習った。《冬翼様》は、《冬の統領ル・ウール》にとって、大叔父のような存在である。敬意を持って受け入れられている。グレイドルに直接、加護を与えている《ル・ウール》の神殿は、巫女姫によって運営されている。これを冬の巫女という。
冬の巫女の中でも、もっとも格の高い者は、神殿長ではなく、冬の統領の荒々しい心を慰める《冬の花嫁》である。冬の巫女は、神の花嫁となるのだ。
(荒々しい心)
ウィリスは、グリスン谷に残る神楽の一節を思い出す。
谷ではもはや舞われぬものではあるが、その中において、ル・ウールは、冬の騎士ルーヴィディア・ウルと呼ばれる。冬の吹雪を連れて、冬の猟犬たちの先頭に立つウルは、怒りに狂って戦い続け、やがては、雪の大弓を仲間にも向けてしまう。冬の巫女姫は、それを留めようとし、矢をその胸に受けてしまう。
愛する巫女姫の死に号泣するウルは、冬の猟犬を指揮する犬笛と、雪の大弓を冬の祠に納め、山の神になったのである。
「それを神殿で口にしてはなりませぬ」とラゼが言った。
「どうして?」
「それは異伝でございます」とラゼ。「《冬の祠》においては、ル・ウール様としか呼ばれませぬ。また、冬の巫女姫は死にませぬ。ル・ウール様は姫巫女への愛に目覚められ、怒りを納められたのでございます。
違う伝承は、愚かな者たちを混乱させ、怒りを招きましょう」
ウィリスは思い出した。昨年の秋、砂の川原で修行した時、若き司祭見習いが、《冬翼様》をけなし、見境のない暴力を振るった。殺されそうになった。
生きるため、ウィリスは雪狼の声に目覚めた。
「ルーヴィディア・ウル」とディルスが繰り返した。「その名前は人の子そのものより古いぞ」
「手に入れた経典が古臭いだけじゃよ」
と、婆は呟く。
グリスン谷は、それほど古い村ではない。何世代か前に、開拓民が開いた辺境の村に過ぎない。
ラゼとしきたりの話をした後は、ポンティから薬草を見せてもらった。
グリスン谷の近くでは入手できない南方の薬草、あるいは、谷で怪我を治すだけでは決して使うことのない毒草の類もあった。
「ウィリス殿もお聞きでありましょう。かのおぞましき毒使いの暗殺者、ギュラニン党のことは」
北原には、恐ろしい暗殺者がいる。ギュラニン党と呼ばれるその殺し屋たちは、甘い匂いのする猛毒を使い、人を殺すのだという。
「これが甘き《トートの毒》でございます」
波理の瓶を取り出し、その栓を開けた途端、甘ったるい濃厚な香りが香った。
「刃物に塗り、傷から入れば、激痛で死に至ります。
粉末にして吹き付ければ、それを吸った者は息が詰まり、絶息するでしょう」
その甘い香りは死の印であった。
死の女神と毒の魔神を信仰するギュラニン党は、その信仰にかけて、トートの毒で殺すことを己に課しているという。何年か前、グレイドルの公子が、この毒で殺されたという。
「ゆえに、この毒について、グレイドルで語ることは避けるべきでしょう」
ポンティは言った。
フェリクスとケイディは、侯王とその家族の話をした。
バッスル侯王ラウルには二人の公子がいた。長男のキーファンは武勇に優れ、未来の侯王として期待されていたが、毒殺されてしまった。次男のレイダム公子が後継者と定められたが、これは病弱である。ラルハース継承戦争では戦いにも出たが、やはり体が弱く、今も国を率いるのは老侯王であるという。
そして、二人の役人は地図を広げた。
「これがヴィダルケン。もう一つ峠を越えれば、マリュアッド。
そこから1日で、王都グレイドルです。
我らはグレイドルで侯王様にご報告した後、北へ向かいます。
アヴァターへ」
北の果て、雪原の中に聳えるのは万年雪に覆われた高山である。
そこは風の妖精騎士の城塞であることから、「高き砦」と呼ばれている。
ウィリスはどこか遠くで雪狼が吠える声を聞いた。
【30】冬の祠
我は待つ。汝の時が至るのを。
ウィリス11歳の夏。
グレイドルまでの辻馬車でさまざまな事柄を学んだウィリスは、マリュアッドを越えて、王都グレイドルに入った。辻馬車は、《冬の祠》に近い馬車宿で一行を下した。
「3日は、侯王様の城にいます。何かあれば、私らまで」
フェリクスとケイディ、二人の役人はそう言い残して、城へと向かっていった。
「私の店は大通りにあります」
ポンティ夫妻もそう言って、去っていった。
最後に残ったディルスは、黒猫の姿をした使い魔シアンを傍らに軽くお辞儀した。
「《獣の王》よ」シアンもまた同時に頭を下げる。
「いずれまた、お会いすることでしょう」
ウィリスは婆、ラゼとともに、《冬の祠》に入った。
《冬の祠》は、その名前ほど小さなものではない。バッスルの守護神となり、侯王からの寄進を受けた神殿は石造りの巨大な城門を有していた。
3名が名乗る間もなく、若く美しい三人の巫女が城門の内側で待っていた。
「雪狼の託宣がありましたゆえ」
三人のうち、もっとも背の高いアシャンは言った。
「《獣の王》が庇護者とともに入城するであろうと。
そして、伴うは、丘の守護者なりと」
アシャンの瞳がラゼに向く。
「ようやく、おいで下さいましたね、ラゼ殿」
「皆さんは何か勘違いをしております」とラゼが顔を赤らめる。「私はウィリス殿と同行したに過ぎません」
そうやって、1歩下がったラゼに代わり、婆が前に出る。
「グリスン谷の当代『お迎え役』ウィリスと、先代のゼルダにございます。
当代の修行のため、お世話になります」
あわせて、ウィリスも頭を下げる。
「ようこそ、《冬の祠》へ。
《冬の巫女》アシャンにございます。
皆様のお世話は、こちらのキューゼとユーリアが努めます」
背後にいた二人の巫女を指す。キューゼはややふくよかな女性で、丸っこい顔は人懐こい雰囲気であった。ユーリアはずっと幼く、ウィリスとそれほど年が離れているようには見えなかった。おそらく、アシャンとキューゼが17、8、ユーリアは12、3であろう。
まず、姫巫女の筆頭であるエルナを訪ねた。
「《獣の王》よ」とエルナは呼びかけた。ウィリスの母より少し年上であろうか? おちついた雰囲気の女性であった。
「《冬の祠》は、盟友たる冬の翼のお迎え役を歓迎いたします。
この地の修行があなた様の道の礎となりますように」
それから、ラゼを振り返り、軽く会釈する。
「ご苦労をかけましたね」
「いえ、どうも。私は……」と、ラゼは居心地悪そうに答える。おそらく、ここまで持ち上げられるのは、普段ないことなのだろう。ウィリスも同様であった。
「まずは《祠》にて、誓願の儀を」
誓願の儀は、盟友の宗派の神殿に学ぶ際に行う、一時的入信の儀式である。
司祭、巫女として修行するということは秘儀に触れるということに他ならない。
宗派の秘儀を尊重し、その秘密を守り、祭神に忠誠を誓う。
それが誓願の儀である。
《冬の祠》はその名の通り、冬の神を祭った小さな祠から始まった。グレイドルの街の守護神となって、敷地が拡大してからも、最初の祠はその神殿の中央に残っている。
なぜならば……
「そこは常に冬だからです」
とアシャンが言う。
中庭を歩むうち、中央の小さな建物から冷たい風が漂ってくる。
すでに一行の手には、白い毛皮のコートがあった。
おそらく、祠の中ではそれをまとうことになる。
その表面にはかすかに霜が降り、氷がそこここに氷柱をなしていた。
「石壁には不用意に触れられぬように。
霜焼けになりますゆえ」
とキューゼが言いながら、用意してきた手袋をウィリスに渡す。
「いえ」とウィリスは断った。
ウィリスにとって、この冷たさは身近なものであった。
(ようこそ、《獣の王》よ)
(待っていた)と声は言う。(お前が来る時を千年待った)
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