永遠の冬【32】雪原
目覚めよ、間もなく時が来る。
継ぐべき者が来たりて。
ウィリス11歳の夏。
バッスル侯国の王都グレイドル、《冬の祠》での修行は誓願の儀によって始まった。
「この地は神の庭。やましき者は入るべからず。
この地は神の庭。悪しき者は近づくべからず」
ウィリスはただ文言を繰り返しながら、小さな香炉を掲げて中庭を歩む。歩む道は祠を七重に包む螺旋状の小道である。手にした香炉は、火のついた炭の上に、香木を載せたもので、清浄な香りの煙をたなびかせている。
頭上から照りつける夏の陽射しにも関わらず、足元は、深雪に覆われている。最初の祠の周囲は、今もまた永遠の冬に包まれ、どうやら夜毎に雪が積もっているようだ。この中庭だけ冬のように寒いが、雪狼を友とするウィリスには心地よいぐらいである。
「この地は神の庭。やましき者は入るべからず。
この地は神の庭。悪しき者は近づくべからず」
言葉は香炉からたなびく紫煙に乗り、ゆるやかに雪原を漂っていく。その紫煙が風に消えていく一瞬、まるで狼のような形を取り、雪原の端へと走り出すが、中庭を巡る回廊に飛び込んだ瞬間、夏の熱風に当たって消えてしまう。
雪の具合から見て、回廊の手前、五尺ばかりのあたりが、どうやら、冬と夏の境目となっているようだ。紫煙から生み出される雪狼の幻はそのあたりを走り抜けては消えてしまうし、回廊に達するともはや夏の熱気がそのまま伝わってくる。
それでも、夏の盛りに、中庭を覆う雪原はひとつの奇妙な風景といえる。たとえ、《冬の祠》と呼ばれる神殿でさえも、そうそう見られる風景ではない。
《冬呼びの儀》。
優れた素質や才能を持った者だけが許される修行である。
夏の盛りに、冬の魔力を呼び起こし、中庭を雪で埋め尽くす。理不尽ともいえる要求であったが、冬の騎士、雪狼をともとするウィリスには、儀式に求められるものが見えていた。冬の騎士が眠る最初の祠の回りには12とひとつの星になぞらえた13重の魔法陣が描かれている。庭に描かれた螺旋の道はその魔法陣を抜けて、結界の中と外を結ぶ微かな線である。その上を歩み、香炉で冬の力を導いてやればいい。
口ずさむ文言は結界を抜けるときに開く微かなほころびから邪な者を呼び込まぬための祭文である。
この修行を命じられたウィリスは、数日かけて、ここまで雪原を広げた。中庭の半ばは雪に覆われた永遠の冬となった。毎夜のごとく新雪が降り注ぎ、ウィリスが踏み固めた螺旋の道を埋めていく。しかし、それより先はおそらく神殿の結界があるのか、一寸たりとも雪は広がっていかない。
「無理はなさっていませんか?」
昼食を運んできたユーリアが問いかけた。世話役としてついた三人の巫女の中でも最年少の少女である。
「いえ、大丈夫です」
ウィリスはすっと答えた。自分でも無理をしている気はない。雪狼や冬の騎士が終始、導いてくれているので、道を外れる恐れはない。
儀式を進ませない原因も分かっている。古い時代、おそらく遥かに強い神が残した12とひとつの魔法陣だ。それを相手に一寸ずつ進んでいく冬の力を導いているのだ。手間がかかるのは分かっている。
それに、これは儀式であり、修行だ。
いつかお迎え役として、神を迎えるための準備だと分かっているから、どこも無理はしないし、辛くもなかった。
「それに、彼らもいますから」
ウィリスの目には雪原の上ではしゃぎまわる雪狼たちの姿が見える。本来ならば、山上で眠っているべき雪狼たちであるが、なぜかウィリスとともにここまでやってきていた。夏の熱さが苦手な彼らは、《冬呼びの儀》で積もった雪に喜んでいるのである。
「ウィリス様は本当に、冬の申し子であらせられる」
ユーリアは微笑んだ。
まだ修行の時が短い彼女は、雪狼が常時、見えるほどではないようだが、それでも、雪原の新雪を巻き上げる風の悪戯の影に、冬の獣たちの気配を感じ取っているようだった。年上の多い神殿の中で、ユーリアは数少ない同じ年頃である。
ウィリスは少女の笑顔に少しほっとする。
この神殿には、多くの巫女や司祭がいたが、ユーリアら、世話役の3名をのぞいて、中庭に踏み込んでくる者は少なかった。以前、砂の川原で修行した時とはまったく逆だった。あの時はほとんど無視され、やがて、嫉妬されたが、今度は皆がウィリスの存在とその意味を知っていた。
《獣の王》ウィリス。
その未来に関する神託が密かに下され、姫巫女エルナの命により、神殿を上げてその修行を後押しすることが決まった、という。そして、遥か西の山中で雪狼の姫に見初められ、その力を持って、ラルハースの水の騎士率いる水魔の軍勢を滅ぼしたとも噂される。
力ある司祭や巫女の多くが、ウィリスのまとう冬の力に気づいた。
そして、ウィリスの誓願の儀以来、冬と風を司る星座、風虎の力が神殿の中で高まりつつあった。巫女も司祭もその力を受け入れ、神に近づくためにウィリスを中心とした「永遠の冬」を受け入れるべく、それぞれの房や祭殿で祈りを続けていた。
ゆえに、ウィリスはほとんどの時間をひとりで過ごしていたが、孤独を感じることはなかったし、嫉妬や敵意にさらされることはなかった。
ただ、じっと堅固な魔法陣と一進一退の修行を続けていた。
「午後、グレン卿が参られます」
ユーリアが言った。
「グレン卿?」
「マリュアッドの貴公子にございます」
それなら、聞いたことがある。マリュアッド河周辺に住まう一族の騎士であり、バッスル侯国の精鋭部隊である。この春、討伐を指揮されたカルシアス様もまたその一員であったという。
もしや、また、カルシアス様のお最後を語れということであろうか?
「見事な雪野原だな」
現れた騎士は、まず、中庭を覆う深雪を見て言った。きらびやかな衣装に身を包んだ若き騎士、グレン卿はじっとその雪を見つめた。
ウィリスは祭文に区切りをつけ、螺旋の道を外れ、騎士の前に跪いた。
「グリスン谷のお迎え役、ウィリスにございます」
「いや、こちらこそ修行を邪魔して失礼」
と、グレンは優雅な礼を返した。 「楽にされよ、ウィリス殿にはカルシアスが世話になった」
「いえ」
と、ウィリスはうつむいた。
カルシアス様には何もできなかった。あの方は水の騎士に殺された。敵はネージャ様が取ってくださったが、ウィリスに出来たことはそのお最後をご家族に語るだけだった。
「気になさるな、ウィリス殿。
我らマリュアッドの騎士の鎧がなぜこれほど派手か知っておられるか?」
と、グレンが言った。
「いえ、知りません」
ウィリスには、真紅の鎧がたいそう目立つということ以外、何も思いつかなかった。
「我らはバッスル軍の旗頭である。
戦場を駆け抜け、兵を導くために、もっとも目立たねばならぬ。戦場のどこから見ても一目でマリュアッドの騎士と分からねばならぬ」
「それでは……」
ウィリスは言いかけた。敵から狙ってくれと言うようなものではないか? 弓矢に狙われ、報奨狙いの雑兵に狙われ、果ては魔術や魔性まで狙ってくるかもしれぬ。戦場で目立つということは、命がけではないか?
「だが、我らには覚悟がある」とグレンが言う。
「バッスルのため、戦い、死ぬ覚悟だ。
カルシアスもまたその誓いを立てて真紅の鎧をまとった。宿敵ラルハースの水の騎士と戦って果てたならば、我らの定めに殉じたという証。
褒め称えん、かの勇士の魂を。
ゆえに、ウィリス殿が辛く思われることもない」
その声は精力的で、同時に優しかった。
やがて、騎士は立ち上がり、中庭に踏み込んだ。袖が濡れるのをいとわず、新雪をすくい上げ、ぱっと散らした。飛び散った粉雪の飛沫の中に、一瞬、雪狼の姿がちらついた。
その姿はすぐに夏の日差しの中に消えてしまったが、グレン卿はまるで魅入られたように、夏の光の中、優しく輝く雪原をじっと見つめていた。
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まずは、再開第二回。少々思いついたことがあるので、『丘の上の貴婦人』とリンクさせつつ、バッスルでの修行の日々を紹介していきます。『深淵』の小説『丘の上の貴婦人』(上下)および『火龍面舞』は絶版ですが、Amazonでユーズドが入手できる場合がありますので、興味のある方は『黒き森の祠』より関連作品のリンクを辿ってください。
曜日は今後、週明けとなる予定。
少しずつ、少しずつペースを取り戻していきたいと思います。
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