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2006年11月16日 (木)

永遠の冬【33】それは甘き

悪しき心を抱く者はいないか?
邪なる者はいないか?

 ウィリス11歳の夏。
 バッスル侯国の王都グレイドルにて、少年はマリュアッドの騎士、グレン卿と出会った。それは《冬呼びの儀》によって、真夏の神殿の中庭に生み出された神秘の雪原の傍らであった。グレン卿はまるで魅入られたように、夏の光の中、優しく輝く雪原をじっと見つめていた。  

 ウィリスは儀式に戻った。  
 香炉を振りながら、祭文を唱え、儀式を進める。じわり、じわりと雪野原が広がっていくが、その広がる歩みは蝸牛が這うようなもので、夏の日差しが溶かすほうがよほど早そうだ。

「ウィリス様、まもなく日が暮れます」 と、世話役の巫女、キューゼが告げた。  
 見れば、日は傾き、黄昏の公女に刈り取られた空は赤く染まっている。
 夜が近づいている。
「《冬呼びの儀》に、夜の力を借りてはなりませぬ」  
 最初の日に、神殿の長である姫巫女エルナに言われた。夏の太陽と戦ってこそ、修行となるのだ。  
 ウィリスは〆の舞いに移る。

「いま、ひとときの眠りを。  
 我はまた来たらぬ。  
 さらなる夜明けのその時まで」  

 七方に足踏みしながら、香炉を振って祭文を唱える。 《冬呼びの儀》のために、呼び出した冬の魔力を穏やかな風に乗せて、四散させる。この手順を怠れば、集めた魔力は牙をむいて、ウィリスに襲いかかる。

「魔力とは」と、かつてゼルダ婆が言った。「およそ、人の子が綺麗に操れるようなものではない。そこには荒ぶる力が宿っておる。あくまでも、我らは冬翼様の御名を唱えて、それを借りているに過ぎぬ。余りたる力はきちんと天地に返さねばならぬ。さもなくば、荒ぶるまま、飢えた魔獣と化そう」  

 魔力には安らぎを与え、風に飛ばす。渦巻いていた寒風が消え、飛び去っていく。

 
 しかし、消えたはずの寒風がウィリスの回りで再度、渦巻いた。  
 雪狼が唸った。  
 一瞬、とろけるような甘い香りが鼻に届いたが、直後に、寒風に吹き飛ばされた。

「風?」
と、キューゼが忌々しげに呟いた。  
 片手には細い葦のようにも見える長い筒を持っていた。まるで今しがた、笛のように吹いていたかのような姿勢だ。 もう一度、その端を口にくわえる。筒先は真っ直ぐにウィリスのほうを向いている。  
 シュッ。  
 そこから、青白い微かな粉を伴う煙が噴出したが、それはウィリスに届く前に、雪狼の風に吹き飛ばされた。

(殺すか?)  

 雪狼が言った。  
 ウィリスにはまだ、何がなんだか分からない。 甘い匂いを、雪狼は忌まわしい呪いのように吹き飛ばした。
  この匂いには覚えがある。 最近、かいだ。えっと……。  

 ウィリスが思い出す前に、キューゼが動いた。細い筒を捨て、一足飛びにウィリスへ向かってくる。その目からは、一切の感情が消えていた。すっと後ろに回した彼女の右手が、三筋の金属の輝きを伴って振り上げられた。

「避けろ!」  

 誰かの叫びが響き、ウィリスは慌てて、雪原に転げ込んだ。  
 キューゼの右腕に装着された金属の鉤爪が雪をかき散らす。そのまま、くいっと向きを変えてウィリスの頭上を横なぎにしていく。また、甘い匂いがした。  

 そこからは一瞬だった。  

 何かが刺さる音、続いて、押し殺された鈍い悲鳴と骨を噛み潰す音が、雪野原に響き、ウィリスの目の前に、血まみれのキューゼが倒れた。  
 まるで何も見ていないような、洞穴のように黒い瞳がじっとウィリスを見つめ、唇が微かに動いたが、ひゅーひゅー言うばかりでもう声は出なかった。その首筋から赤い血がほとばしり、雪を染めていった。

「うああああ」  
 ウィリスは叫び、飛びのいた。  
 また、甘い香りが鼻をくすぐる。  これは……。

「トートの甘き毒」  

 雪を踏みしだいて、駆け寄ってきたグレン卿がそう呟くと、抜いた剣をぐいと、キューゼの胸に突き立てる。  
 首筋を雪狼に咬まれ、すでに血まみれになっていた若い巫女は、一瞬だけその瞳を見開き、そのまま雪原に伏した。  
 グレン卿は剣先で彼女を再度、突いた後も、ひどく慎重な仕草で、巫女の死体を睨んでいった。その背中には、きらびやかな短剣が突き刺さっていた。おそらくはマリュアッドを示す緋色の柄を宝石で飾った贅沢な代物だ。

「ギュラニン党か」

 
 グレン卿はいまだ甘い香りを放つ鉤爪を剣先で弾き飛ばす。  
 ギュラニン党。それは戦乱の北原で、死そのもののように恐れられる毒使いの暗殺者たちである。彼らは好んでトートの甘い毒を使う。これが体内に入れば、痙攣と激痛を伴う、恐るべき死に見舞われるという。  つまり、今、ウィリスは命を狙われたのだ。  
 少年にはやっとわかってきた。  
 最初の筒は、毒粉を吹き出し、吸い込ませる細工。雪狼の風が戻って来なければ、そのまま、毒を吸い込んで死んでいた。二度、それを防がれたキューゼは、毒のついた鉤爪で襲い掛かってきた。その三筋の鉤のいずれかが肌を傷つければ、同様に、毒が血に混じり、毒蛇に咬まれたように死ぬことになったのだ。

しかし、なぜ、キューゼが?

「ギュラニン党は、忌まわしき双子の片割れを引き受けて、暗殺者に育てる」  
 北原では、双子を忌む。地方によっては片割れを川に流したり、寺院に捨てたりするという。ギュラニン党はその捨てられた赤子を引き受け、幼少から毒使いの技を仕込むという。
「おぞましき暗殺者の中には、双子のもう片方とすりかわり、一見、普通の市民を装う者もいるという。キューゼはそうした、すりかわりの一人であったのかもしれない」  
 いつ、すりかわったかは分からない。ウィリスが神殿に来たときにはすでにそうであったのか、それとも、ここ数日のことなのか。ウィリスには一体全体、何が分からない。
「貴殿の力は、すでに恐れられているようだな」  
 グレン卿は言った。
「真夏にこの雪原を生み出せる魔力。それこそ恐るべし」  

 ウィリスは巫女の血に染まる雪原を見た。  
 夕焼けの空のごとく、赤く、そして純白の雪原。  
 それは、夏とは思えない奇異な風景だ。  
 おそらく、自分も。

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 再開第三回で、いきなり風邪とか、ディスプレイ障害が重なり、木曜日になってしまいました。曜日は今後、週明けから水曜日までにしたいのですが、まずは、少しずつ、少しずつペースを取り戻していきたいと思います。  
 ま、一つずつ一つずつ。

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