永遠の冬【52】異端者の過去
失うことを恐れるな。
怖れに身を震わせて無為に過ごす時間こそ最大の危険を招く。
ウィリス11歳の夏。
白き獣師とともに、アヴァター山の吹雪の中、かつて愛した女の死を語り出す。
「異端者は、なぜ、異端者と呼ばれるのか?」
と、レディアス=イル=ウォータンは自嘲気味に笑う。酷薄さを示す薄い唇を見て、ウィリスは、(寂しそうだな)と思う。
「それは、人として越えてはならぬ一線を越えてしまうからだ」
人としての線。
黒い獣師ディルスも言っていた。
異端の獣師とウィリスの間にある、一本の線。
その見えない線を、「越えては欲しくない」と。
「私は、その女を生きたまま、魔族に捧げた」
とレディアスは言う。
生贄の儀式。
ウィリスはぞっとした。
そういうことをする、魔族の使徒がいるとよく聞く。ありがたいことに、グリスン谷の周辺にはいないらしいが、それでも、邪悪な魔族の信徒によって、子供がさらわれたとか、殺されてしまった娘の話は噂として聞いていた。腹を裂かれ、腸を引き出されていたとか、首を切られ、目をえぐられていたとか、それは、それは、恐ろしい話ばかり。
答えることの出来ぬウィリスを知ってか知らずか、レディアスの告白は続く。
「それは叡智の代償だった。
そうして、私は魔獣作成の秘儀を得た」
(叡智?)
ウィリスはそれがどれほど大事な物かは分からなかった。
確かに、魔法を学ぶために、多くの努力と苦難が必要なのは分かる。
あんなことが一つもなく、ただ力を手に入れられるなら……
でも、自分は誰かを代わりに生贄に捧げたりはできない。
ゼルダ婆でも、メイアでも。
「そこまでしてしまう理由をお前が理解する必要などない」
とディルスが言う。
「人の命より大事な知識があるなどと考えるな」
それが「人としての一線」。
白き獣師レディアスは、黄金に輝く右手の篭手を握って見せる。
ウィリスはそれが大きな魔力を発しているのを感じる。
それがもしや、女性を代償に得た力なのか?
(否)
ウィリスの疑問に答えるように、篭手が遠吠えを揚げる。
「これは、《陽炎の王スルース》」とレディアスは笑う。「獣師同盟より奪いし、《混沌の六魔獣》の一体に過ぎぬ。こやつを御するために、我が右腕を捧げた」
見れば、レディアスには、左腕がないし、顔にはまり込んだ白い仮面はもはや肉体と一体化しているようだ。
「二つの目は、《収穫の騎士ラシュノルド》に、
左腕は《すすり泣く無限》に捧げた」
あと、この人の中に人である部分はどれほど残っているのだろうか?
「それでも、私は、サイアを救えなかった。
私は彼女を見捨て、今、ここにいる」
その声は毅然としていた。
(後悔はしていませんか?)
その問いは、ウィリスの唇まで達しなかった。
突然、遥か南でおぞましい龍の気配が爆発した。
(汝らは我が餌)
再び、あれが目覚めたのだ。
飢えたる《霧の龍王》が。
レディアスは、黄金の篭手で山頂を指差す。
「ウィリスよ、さあ、冬の封印を解け。
そうして、お前の大事な物を救いに行け」
メイアの顔が浮かんだ。
その瞬間、ウィリスはひとり走り出す。
雪狼たちが回りに従う。
心地よい風と雪が強まる。
(乗れ)
雪狼の声が響き、ウィリスは風とともに浮かび上がる。
そして、天高く舞い上がると、ついにそれが見えてきた。
山頂の上、巨大な四つの顔を持つ首が、黄金の鎖によって山そのものに縛りつけられていた。
-------
またもや少しずつ、再開リハビリ中です。
GW中に、いくつも『深淵第二版』に関する質問をいただいております。こちらも近日中に少しずつ対応させていただきます。次回は来週に。
| 固定リンク