歌の龍王【29】海王(承前5)
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紫の通火
我は瞳を閉ざす。
涙とともに希望をこぼさぬように。
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沖に出てしばらくすると、青く澄み渡った空の彼方、水平線に巨大な入道雲が現れた。
「何かいるぜ」
と、ルーニクが笑う。
ザンダルが目を向けると、入道雲のあたりから複数の蠢く気配を感じる。
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敬意を忘れたる者には厳罰あり。
怒りもまた真実なり。
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入道雲の雲間にばしっと稲妻が走り、巨大な銀色の球体が浮かび上がる。
「宝玉の大公が雲の中に……」
ザンダルは叫ぶ。
入道雲の中にいるのは、海底の邪神ゲグの封印を解き、波の騎士の帰還を導いた者。《宝玉の大公》だ。巨大な空飛ぶ銀の球体。
いや、あれもまた魔族の宝玉。
忌まわしき力を持つ珠。
「波間を見ろ」
ルーニクの指差す先、地平線に泡立つような波が立ち上がっている。
この距離にして見えるということはすでにすさまじい波だ。
そして、ザンダルの幻視に巨大な大海蛇と、白い巡礼姿の男が映る。
「我は警告したり。
津波の王は目覚め、海王の都へと押し寄せん」
あれこそが、ヨーウィーの言った《海の司祭アイカ・ラシーグ》か。
警告を発しようとする前に、大海蛇が吠えた。
「我が痛みを! 我が苦しみを!」
ざっと意識が海の底へ呑まれていく。
*
胴体を貫く激痛。
思わず見開いた目に映るのは、何もない海底の闇。
遥か遠く頭上のどこかに光ある海面があるのは知っている。
だが、呪わしき黄金の槍に貫かれ、海底で串刺しになったこの身には届かない。
のたうっても、海底に降り積もった白い塵芥が舞いあがり、視界を閉ざすだけ。
あまりに海が深きゆえに、音もなく、魚も蟹も近づいてなど来ない。
時折、海底を彷徨う盲目の大鮫が流れよってくるか、鯨を連れた海巨人どもが封印を見回りにくることもあったが、それすら、稀になった。
孤独の中、何年が過ぎたかなど分からない。
自ら死んだように横たわるだけ。
星辰の合により、体を貫く破魔の槍の魔力が微かに上下するだけが時の流れを知る唯一の方法だ。
ある時、破魔の槍の力が劇的に強まり、胴体を焼き尽くす。
激痛のあまり、痛みを忘れて槍をつかんだ。槍の魔力が手を焼き、黒焦げにした。槍の側面についた棘にひっかかり、指がちぎれたが、両手を焼いた痛みに紛れ、気づいた時には目の前の暗い海水の中に、指が浮かんでいた。白い海底の塵芥の中でゆっくりと血潮を引きながら、回る指。
(ああ、こやつだけはこの槍から自由になったのだ)
うれしかった。
「行け、我が指よ。我に代わり、海底の怒りをつたえよ」
指はゆっくりと海蛇に姿を変え、遥か彼方の海面を目指して浮上していった。
*
「帆を回せ!」
ルーニクの声にはっと意識を戻すと、船はすでに恐ろしいほどの速度で嵐の中を走っていた。いつの間にか、入道雲の真下に突入し、上空では稲妻が走っている。船は激しく揺れている。甲板上を船員たちが走り回り、横に展開した三角帆が風をはらんで船の行方を変えていく。
立ち上がると、船は巨大な波に向かって斜めに切り上がりつつあった。
「ザンダル、目覚めたか!」
若い海王は、スゴンの赤き瞳を穂先にした巨大な銛を抱えている。
「奴が来るぞ!」
巨大な波の下、鯨よりも巨大な細長い何かが蠢く。
ざっと波を割り、大海蛇が頭をもたげる。地上の毒蛇とは異なり、まるくのっぺりした海蛇特有の頭は、まるで指先のようにも見えるし、両目が正面に配置されているため、人の顔のようにも見える。
「行け、我が指よ。我に代わり、海底の怒りをつたえよ」
《津波の王ラシーグ》の声がザンダルの耳に響く。この大海蛇ですら、ラシーグの指から生まれた分身に過ぎない。王はどれほど巨大なのか?
大海蛇は再び、吠えた。
それはまさにこう聞こえた。
「絶望せよ」と。
まさに然り。
海王の誇る大帆船すら木の葉のようにしか見えない巨大な怪物が、尖塔のような津波ととこに立ちはだかっているのだ。
いかなる者がその行く手を阻めよう。
海王の都すら一息に呑み込んでしまいそうだ。
だが、ザンダルの目の前には、一人の若い海王がいた。
ルーニクは赤銅色に焼けた腕で赤い宝玉を穂先にした銛を構え、大海蛇に向かい、一歩も引かぬ構えだ。
大海蛇は、ルーニクをしかと見つめ、巨大な顎を開く。
「人の子よ。我に歯向かうか?」
その声と吐息だけで数名の船員が吹き飛ばされた。舷側から嵐の海に落ちた者は決して助かるまい。
だが、ルーニクは膝すら折らない。
「さあ、これが答えだ!」
ルーニクは、赤き瞳の銛を大海蛇の口に向かって投じた。それはまるで空を飛ぶ龍のように大海蛇へ突進する。海王たちの魔力が添えられているのをザンダルは感じた。ウィンネッケの闇の力、ヨーウィーの炎の力、ザラシュの破魔の力に加え、海の聖剣が生み出す風と波の力が死の槍を守り、大海蛇へと導く。
それは大海蛇の口の奥へと飛び込んだ。
ぎいい。
ザンダルの脳裏のどこかで重い金属の扉が開く。
スゴンが這い出してこようとしている。
冷たい死の力。
龍めいた頭蓋骨の奥で光る赤い瞳。
「死は安寧」
それは、ぼそりとつぶやく。
ザンダルは見た。
銛が口の中に刺さった瞬間、赤い光は一瞬輝き、次の瞬間、大海蛇は動きを止めた。
目から光が消え、そのまま、下に落下する。
断末魔もなかった。
いままで大海蛇の頭を支えていた全ての力が失われたように、その巨体は真下に沈んだ。目の前にあった津波さえも力を失い、一気に崩れ去る。
その余波で、大渦号はぐいっと押しやられる。
甲板が逆の向きに激しく傾き、ザンダルは濡れた甲板で倒れ、そのまま滑り落ちる。途中でロープの束に当たらなければ、そのまま、舷側を越えていたかもしれない。
しかし、船の揺れはそれで終わりだった。
目の前で大津波は消えた。
風もみるみる内に弱まり、上空を覆っていた雷雲は風に乗って飛び去っていった。
太陽が現れ、風は完全に止んだ。
凪が来た。
つい先ほどまで嵐の中にいたとは思えない風情だ。
そして、盟友たる海王の船も見える範囲に無事浮かんでいる。
「まだだ、気を許すな!」
ルーニクが怒鳴る。
ぞっとする感触で、ザンダルは頭上を見上げた。
そこには、巨大な銀の球体が浮かんでいた。
城よりも巨大なそれは四隻の海王船の頭上に、まるで雲のように浮かんでいた。
船員たちは頭上を見上げて、声もないまま、息を呑んだ。
そのまま落下してきただけで、『大渦号』はあとかたもなく砕け散るだろう。
すでに、魔族を倒す武器はもはや存在しない。
風が無ければ、たとえ、海王とて帆船を動かすこともできない。
風を司る風虎座の呪文を唱えるしかない。
だが、ザンダルには分かっていた。
この場の風を支配しているのは頭上の球体、《宝玉の大公》だ。
ぞっとする沈黙の後、大音声が響いた。
「果たされたり!」
同時に、銀の球体から何かが落下してきた。
それはふわりと甲板に舞い降りた。
一本の銛。
穂先には赤い宝玉が輝いていた。
「スゴンの赤き瞳」だった。
「果たされたり!」
再び声が響き、銀の球体は消えた。
何も兆しもなく。
見上げる空には雲一つなかった。
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『歌の龍王』第二十九話です。
次は来週以降に。
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