歌の龍王【55】黒鉄の篭手と火龍の姫(3)
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紫の翼人
あらゆる拘束を断ち切り、自由にする。
肉体といういましめからも解き放たれるがよい。
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剣の公爵の次女、カスリーンは御年18歳となるが、今も、戦場に立ち、常日頃より、両手に黒鉄の篭手をまとっている。ドレスの上からつけた黒鉄の篭手。ゆえに彼女は黒鉄の姫とも呼ばれる。
「ザンダル、覚えているか?」
カスリーンは、つぶやくように言った。
「この篭手の意味を」
「ええ」とザンダルは答える。「それは証でございます」
「そうじゃ」とカスリーンは答えた。「我は、成人の折に誓った。王になると」
そう、それこそがカスリーンが龍骨の野、レ・ドーラにいる理由。
それこそが、ザンダルがここにいる理由でもある。
剣の公爵家の次女カスリーンは、火龍のごとき魂の持ち主であった。
5年前まで、彼女の家庭教師であったザンダルはその理由を感じ取っていた。
幼少の彼女が体験した陰惨な暗殺の風景。
彼女の前に、血まみれで倒れている侍女の姿。
その時に感じた怒りと憎しみが彼女を突き動かしている。
ザンダルは、彼女のその気持ちを抑えるのではなく、一本の槍に鍛え上げた。
この姫は、火龍のごとき心を持って、その穂先を磨き上げた。
「三月もすれば、アナベルは軍船を用意できよう」と、カスリーンは言う。「城には多くの志願兵が集まっておる。レ・ドーラでは宝を掘っているという噂が広がっているようじゃ」
それは、アナベルの仕掛けであった。
250の樽とともに入国し、レ・ドーラへ向かう前に、あえて王都ユパで大きな商売をして、レ・ドーラの富に関する噂を広げた。ルケリア河からの運河工事にも人が集まり、レ・ドーラへ向かう水路の一部が開かれるのも間もなくと見られている。予定をずいぶんと上回る流れである。
「レ・ドーラ城砦からの前進に、あとどれほどかかる?」
龍骨の野の入り口にさしかかり、カスリーン軍の東方進出は一旦、止まっていた。狂気の源である、死龍の骨を掘り出す作業にとりかかったためである。
「後、一月ほどで」
魔道師学院から派遣されたフェムレンと魔道師候補生たちは、発掘の手順を確立し、すでに最初の骨塚を掘り上げた。名の知れぬ龍王は、頭骨を除き、ほぼ全身が確認され、型を取り、調査された後、学院や諸国に売却された。
「頭はありませんでした。
おそらく、魔族が持ち去ったのでしょう」
「その火龍は恨んでおるのかな?」
と、カスリーンが聞いた。
「火龍の人格は、凶暴にして貪欲、冷酷にして残虐ですが、妙に鷹揚な部分もあります。
かの龍王の猟犬のごとく、恨みを忘れぬ部分もあれば、戦いを愛し、好敵手を賞賛するとも言われております」
「なぜ?」
「火龍にとって、地上は仮の宿に過ぎません。あの者たちには、もっと厳しい戦場がございます。世界の深淵の深き果て、終末の浜辺こそが、彼らの真の住まうべき場所」
「では、なにゆえ、地上に出現するのだ」
「転生の癒しを受けるためでございます。
あれらは、世界の槍。
戦いに傷ついた火龍たちは、終末の浜辺よりこの地上に転生し、一時の癒しを受けた後、自ら英雄の刃によって死に、本来の戦場に旅立つと言われております」
「地上での乱行が、あれらには、癒しというのか?」
「我ら学院が集めた火龍からの証言を総合した仮説にございます」
「火龍から話を聞いたのか?」
カスリーンは、呆れた。
火龍と言えば、人の子など、ちょっと生きのいい餌にしか考えていない。人の子が蟻を踏みにじるように、火龍もまた人の子を踏みにじって気にもかけない。
火龍の放つ狂気は、見た者を狂気に追いやることすらある。
もとより、火龍に近づいて無事な訳がない。
しかし、ザンダルはまるで当たり前のように答える。
「もちろんです。研究対象が知性ある者ならば、会話は当然の選択です」
こういう時のザンダルは、妙に無表情になる。
冷静と言えば、冷静だが、どこか、人としての感情が欠落したように見える。
おそらく、青龍の魔道師とはこういうものなのかもしれない。
そう言えば、フェムレンとその弟子たちも、どこかたがの外れたような部分がある。
「火龍を倒す、捕らえる、という選択よりも、会話の方が危険性は低いのです」
カスリーンは言葉を飲み込む。
火龍を倒すべく、訓練された兵員を送り込み、全滅するのに比べれば、若い魔道師1名が接触を試みた方が失敗時の損失は少ない。おそらく、そのような冷徹な計算だ。ザンダルも、そうして接触をするべく、モーファットで日々を過ごしていた。
いつか、火龍への接近を果たし、彼らと会話する。
それがザンダルの人生であったはずだった。
「だが、お前は私のもとに戻ってきた」
「御意」
「それもまた、誰かの《策謀》か?」
「それは、いずれ分かります。もしも、我らの企てが《策謀》の結果ならば、アナベル・ラズーリに続く者が現れるでしょう」
果たして、それは次々と現れた。
多くの者たちがレ・ドーラの開拓に参加し、運河は最初の一区画が注水された。掘削作業の範囲も広がり、ラグレッタ城砦の周辺に船着場が作られることも決まった。
フェムレンとその弟子たちは、骨塚に続く荒野で骨を拾って歩き、徒歩で一日分、進んだあたりにレ・ドーラで二番目の城砦、アールランが築かれた。
ラグレッタ城砦の守備隊長ボルツがアールラン城砦の城主に抜擢され、工兵頭のキリクとともに、城砦建設から仕切った。この時、アートという名前の新参者の傭兵がボルツに気に入られ、歩兵槍隊に加わった。
そして、二月が経った頃、二人の男がラグレッタ城砦に姿を表した。
一人は、予想された人物である。
「モーファット伯爵領の使者、騎士ゾロエ・アラノスであります」
大柄な騎士は、古き家柄の出にして、件の赤き瞳の魔女ドレンダルが出現した際、ザンダルとともに、討伐に参加した人物だ。
「来訪を感謝する」とカスリーンが言った。
すでに、モーファットとは何度も使者が行き来し、カスリーンの意図は伝えられているが、運河の建設が始まったのに対応し、モーファットからも、運河が開かれることとなり、その打ち合わせを兼ねた外交特使として、ゾロエが派遣されてきたのである。
「モーファットとしても、このまま、ユパがレ・ドーラ全域を飲み込むことを見過ごすわけにもいかぬだろう」
騎士の来訪を聞き、カスリーンはそう呟いた。
モーファットは湖に守られた水上都市であり、それゆえに、隣国という脅威を長らく持たなかった。土鬼と火龍のみが主な脅威だったが、火龍に餌付けすることで、土鬼の脅威も減っていた。だが、カスリーンの道がレ・ドーラを抜け、水路が開削されれば、モーファットの地位が上昇する一方、カスリーンら、ユパ王国の影響を受けることにもなる。
下手をすれば、ユパの属国にもなりかねない。
そこで、自らもレ・ドーラ貫通運河に加わり、領地を拡大することにしたのだ。
「カスリーン殿下の計画は、我がモーファットにとっても、発展のきっかけとなります。ぜひとも、ご協力いたします」
ゾロエは、ラグレッタ城砦に留まらず、最前線のアールランまで足を伸ばし、建設の状況、兵員、開拓の様子などを見て回った。ザンダルは、隠すことなくすべてを見せ、大型弩弓砲の設計図の写しまで渡した。
「カスリーン殿の度量の大きさには感服いたした」とゾロエ。「あれでわずか18歳とは末恐ろしいわい」
だが、その目は決して笑っていない。
隣国に若き逸材がいることは、決して嬉しいことではない。盟友たる間はよいが、戦乱の時代、いつ事態が変わるかどうかも分からない。
「ご結婚のご予定は?」とゾロエが探りを入れる。裏切りを避ける最善の方法は、人質を兼ねた政略結婚だ。剣の公爵家の次女とあれば、モーファット伯爵家としても、歓迎すべき嫁である。
「我は、この企てに命をかけた身。今のところ、考えてはおらぬ」と、カスリーン。「それとも、伯爵殿が我を嫁に欲しいと?」
「ご検討ください」とゾロエ。「伯爵家には、御年17歳になります、次男オルドリク様が居られます」
そう言えば、とザンダルも思い出す。確か学者気質で、プラージュ教団の神殿で学んでいたはずだが、戻ってきたのかもしれない。軍人というよりも、神殿の司祭にふさわしい優しい若者であった。
「我は、このような身の上」と彼女は、黒鉄の篭手を示す。豪華なドレスとは似合わぬ無骨な武具が彼女の肘から指先までを覆っている。この数年、彼女が篭手を外した様子を見た者は、側仕えの侍女だけという。世の中には、彼女の篭手の下には醜い刻印があると噂されている。それゆえ、カスリーンは父の公爵をも説得し、未婚の身を貫いて来られたのである。
「お優しいオルドリク様でしたら、ぜひ、我が妹アイリーンこそふさわしいかと」
カスリーンは妹の名前を上げた。
「ぜひ、一度、オルドリク様には、ユパへおいでくださるようにお伝えください。
私の妹もまず、お会いしてご挨拶したいと思っておるでしょう」
双方とも、納得する決着点であった。
ゾロエはモーファットとの仲介役として、しばらく、ラグレッタ城砦に滞在することになり、縁談の件は使者がモーファットとユパの間を行き来することになった。
「後は、父上に任せよう」
自分の縁談話を妹に放り投げたカスリーンはザンダルに微笑んだ。
ザンダルは何も言わなかった。
もう一人の来訪者は、レ・ドーラの荒野に最も似合わない南方の若者であった。
彼の名はルーニク。渦の海の海王である。
「ザンダルよ。そろそろ、船乗りが必要ではないかな?」
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『歌の龍王』第五十五話です。
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