歌の龍王【68】火龍召喚(4)
*
多彩なる夢魔
疑え
すべてはいつわりなのだ。
真実など、ありはしない。
今こそ、密やかな企てが形になる。
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魔族《赤い瞳の侯爵スゴン》は、まるで霧のように消えた。
おぞましい死の気配がしばらくの間、人々を凍えさせていたが、虚空に入ったひび割れも、露払いの骨の猟犬も、幻であったように消え、《赤き瞳の巫女ドレンダル》だけが皆の前に残っていた。
「満足ですか、ザンダル?」
女の声は蠱惑を含んでいた。
とろけそうな声だ。
魔族召喚に備えていなければ、染み込んできそうな声だ。
「感謝する」とザンダルは答えた。「必要な情報は得た」
「では、私もお暇いたしましょう」そう言って、ドレンダルは右手を振る。彼女のすぐ脇の空間が引き裂かれ、深淵への入り口が開く。
「待て」とザンダルが声をかける。「それでよいのか?」
「もちろん」とドレンダルは、鉄の公女カスリーンの方を見た。「公女殿下にご挨拶でき、恩義を売りました。これで十分。後はザンダル、お前がその槍をもう一度、振るえばよい。さすれば、我が主人は顕現し、復讐を果たす」
そして、赤き瞳の魔女は消えた。
「さて」と青龍の塔の長《龍牙のザーナンド》が発言する。「状況をまとめよ、ザンダル」
姉上と呼んだドレンダルには見送りの言葉も発しなかったが、そこは青龍座の魔道師である。心もまた火龍の鱗に覆い尽くされているのだ。
「は」とザンダルが答える。「歌の龍王の真の名前はマーシュグラ、青龍と八弦琴の星座を渡る龍王と分かりました。あれが容易に復活せぬ理由も、スゴンの牙が食い込んだ心臓を取り戻す必要があるということが判明しました。この2点はマーシュグラの召喚および使役の可能性を高めました。
他方、ドレンダルが言い残したように、スゴンの復活への一段階を進めたことでもあり、警戒が必要です」
「不確定なことがある」とザーナンドが指摘する。「スゴンの封印解放への道など、もっと簡単に出来たであろうに、なぜ、その宝玉にこだわる? なぜ、ザンダルにこだわる? 解放の条件およびその流れに不明な点がある。これは駆け引きと思うか?」
「スゴンはおそらく一手目に過ぎませぬ」とザンダルが答える。「スゴンの出現により、狼煙が上がります。それをもって、他の魔族の諸侯を目覚めさせつつ、火龍の勢力を潰していくのが魔族の目的かと」
「ならば、我らの動きは変わらぬな」と青龍の塔の長は答えて、カスリーンを振り返る。「公女殿下、かくのごとくでございますが、火龍召喚を続けさせていただきます」
「ひとつ、問おう。魔道師よ」とカスリーンはその籠手を胸に当てた。「お前たちと魔族との暗闘の中で、我が身はいかなる存在なりや?」
ザーナンドは一瞬、ザンダルを見たが、そのまま、公女に向かう。
「公女殿下こそ、我らが希望。これより我らが召喚する火龍は、公女殿下と運命の絆で結ばれております。殿下はこの火龍に守護され、このレ・ドーラの支配者となられるのです。我らがザンダルを殿下の元に派遣したのは、この時のため。ザンダルは殿下のために身命を賭して動きます」
「すべては予期していたことと?」
「は」
「では、なぜ、あの日、ザンダルは我がもとを離れた?」
「それも計画のうち」と塔の長は頭を下げた。「殿下に寂しさと孤独を感じさせたことをお詫び申します」
「まあ、よい。それが私を鉄(くろがね)に変えた」とカスリーンは自らの籠手に包まれた腕を見る。「では、もう二度と離れぬと?」
「御意のままに」
「歌の龍王は我をどう変える? 人の子の姿は保てるか?」
魔法はしばしば、人の子を醜く変えてしまう。異形の刻印とも言われる。カスリーンの手が優しくたおやかな女性の手から、火龍めいた鉤爪を持つに至ったのもそうした異形である。これに、火龍の守護が加わったならば、どれほど人の子の姿と隔たってしまうのか?
「ご覧ください」と、ザンダルが魔法陣の中に踏み込んで、呪文を唱える。「我に龍の鱗を与えよ!」
青龍の魔法陣から青い光が渦巻くように巻き上がり、ザンダルの身を包む。火龍の雄叫びが聞こえたような気がする。その渦がザンダルの顔に鱗を浮かび上がらせる。魔力が身を削ろうとしているのか、魔法陣のそこここ、あるいは、ザンダルの肩や腕で火花のように何かが光る。
「龍翼」
さらに唱えた呪文により、ザンダルの肩から、龍の翼が生える。魔法の反動か、口元に血が滴る。
「龍爪」
3つ目の呪文に応じて、片腕が巨大な鉤爪を持った火龍の腕に変わる。ザンダルの頬を魔力の渦がかすめ、血が流れる。胴体の回りで火花が散り、一瞬、ザンダルがよろめくも、杖によって姿勢を維持する。
「それがお前の力か?」
「あくまで、呪文の効果に過ぎませぬ。かように変じることが出来ますが」とザンダルが片手を振ると、すべてが元に戻る。「殿下が火龍の守護を受けられたとしても、我らがお守りいたします」
「信じよう」とカスリーンは答えた。「我はザンダルを信じよう」
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